旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

めぐりズムと瞑想

目の疲れには蒸しタオルですが、蒸しタオル作るとか片づけるとか洗うとか、そんな面倒なことをこの私がするわけがなく、あと蒸しタオル最初熱すぎるしすぐ冷めるし冷たいと辛いし微妙と思っていたところにこの商品。ロングヒットですよねめぐりズム。


カイロと同じ要領で発熱させて+蒸気を出させるということで、お手軽清潔あったかくてきもちいい。寒くなってきたので昨日やったら大変幸せでした。
めぐりズム 蒸気でホットアイマスク 無香料 14枚入


サイトに行ったら他にも色々種類があった。へえええ。


あともう一つ、私が出来る訳がないのが瞑想でして、なんか落ち着いて目を閉じてじっとしていようとするとすぐ飽きて目を開けてスマホいじっちゃう。もしくは寝ちゃう。


ところが!このめぐりズム。あまりにも気持ちが良くて外したくないのでスマホ欲が負けるんですな。なんと!


それでも眠いときは寝ちゃいますけど、眠くないときにやるとすごい。私が今までやれなかった「目を閉じて寝ないでそのままじっとしている」が10分間出来る!


快挙過ぎて昨日笑いました。めぐりズムしながら。


その時間に私がやっていたことが果たして瞑想だったのか、よくよく考えるとあまり記憶にないんですが(それは寝てたのでは)、さておき重要なのは、目を閉じてじっとしていることを10分続けられたということ。


10分ですよこの時代のこの私の人生に。


それってきっと目だけじゃなく脳にいいなあと思ったのです。


起きていてちゃんと休息ってむずいからねこのチカチカした日々。

真空タンブラーとDrinklip

夏の間はアイスコーヒーに氷を入れてずっと飲んでいた私ですが、とにかく結露して机が水浸しになるのが嫌で。コースター置けよという話なんですけれども、コースターが濡れるのもいやああ。


ということで雑貨屋で見つけたDrinklipを買った。
::Drinklip::SMART EXTENSION FOR YOUR SPACE
(↑は本家サイトだけどAmazonとかで売ってます)

すごく良い。机の上のコップ類をことごとく倒してきた私としてはなぜこれを早く使わなかった。ついでに机が若干広くなった気がする。素晴らしい。
(引き出しがついてる事務机だと使えないかな。無念)


ただ、ひとつ問題があって、それなりの深さがあるので把手が付いたカップが使えなかった。マグカップとかだめ。
で、出かける夫に頼んだら適当にタンブラーを買ってきてくれた。これだった。

「ありがとう!」(色気ないけどまあいいか)って使い始めたらすごかった。アイスコーヒーに入れた氷が半日溶けない。そして全く結露しない。あれええなにこれ。
電気屋でワゴン売りされててなんだか分からないというのでレシート発掘して品番を調べたところ、これだった。


山善(YAMAZEN) 保冷温マジックタンブラー マット仕上げ 真空タンブラー ITD-450(MT)


実感、もっと溶けない。すごい。冷たい。夜氷入れてベッドサイドに置いて朝になって全部溶けてない。起き抜け冷水いける。


真空タンブラーという商品、いままで全く目に入ってなかった(多分デザイン的にだと思う)けどすごいな。すごい保温保冷力なんだな。びっくりした。
いろんなメーカーが作ってた。きになる。


結露しないのでじゃあDrinKlipじゃなくて普通に机の上に置いてもいいんじゃないかというと、タンブラーという形態は私が一番倒してきたあれなので、やはりホルダーは必須。


ということでこの最強な組み合わせに助かった夏でした。冬も楽しみ。

家族と帰属

70代前後の世代の話を聞くと、奥さんは家のことは何でも知っているんだけれど、対して旦那さんは冷蔵庫の中の調味料や食器の場所はもとより、
家の中の家事の段取りからゴミ捨てのスケジュールに至るまで何も把握していないしする気もない、という完全分業の夫婦がわりとある。
別に旦那さんが亭主関白というわけではなくて、細かく命令されると頑張ってやってくれるんだけど、自分が家計を運営するという当事者意識はないので、
家計の段取りをする側には永遠に回らない。


このポジションなにかに似てるな―と考えて思い出した。
子供と一緒だ。


家族が自分の都合を聞くことはあっても、自分が家族の都合を聞くことはない(遊びに行きたいとか車使いたいとかそういう自分の為以外で)ポジション。
自分の予定が家族に影響しないから、遊びに行こうが旅行に行こうが友達とご飯食べに行こうが自由で、家には居たいときはいくらでもいて、居たくないときはずっと居なくても構わない。
家は、自分が帰属する場所、帰る場所であって、自分が全力コミットで運営する場所ではない。それは誰か他の人の職分で、自分は所々、都合のいいときに手伝うだけ。
でも家族である権利と恩恵は享受する。そんな立場。


人の人生の中で、家族に帰属するだけじゃなくて運営をする側になるポイントってどこだろう、と考えたとき、まあとりあえずは結婚、だろうと思う。
ただ、人数2人の家族って、結局相手がどうするかと自分がどうするかだけの問題だから、ぶっちゃけお互い好きにしてたって別に支障はない。
となるとやはり、子供が出来てからだろう。
もしくは親と住んで、かつ、運営のメインの世代が自分達側である場合。介護フェーズとか。
まあ別に血の繋がりは関係ないので、どういう構成でもいいんだけど、とにかく3人以上で共同生活をするというシーン。


で、家族の運営側になると何が制限されるって、自分の都合だけで動けない。
3食誰かに食わすとか、家を快適に保つとか、そういった他人の生活を支える側になるので、
今日夜中まで遊びに出ちゃおうーとか、まあいいか1週間くらい掃除しなくても、とかが難しい。
休業するとキレられるコンビニみたいに、回っているのが当然なのが家計なので。


で、冒頭の上の世代。奥さんは家族の運営側、旦那さんは帰属側。
二人で運営の当事者を担っても良さそうなものなのに、綺麗に分業している。旦那さんが定年してそちらの「業」が終わっても、奥さんだけがずっと。
大変だなあと思うけど、ここは自分達の世代の話ではないので好きにすればいい、というか個人的にどうでもいい。


気になるのは自分達の世代。
女性はね(嫁に行って義母にご飯作ってもらってる私みたいなクズを除いて)、社会的要請が元々あるから、すんなりと当事者になりやすい。
子供が出来ようもんならどうしたって子育てのメインを担うし(同じスペックなら男が働いた方が給料がいいことが多いのでこの国)。
ただ、男性ね。これ2種類いるんだなあと思った。


子育て中の友人(女)が先日言っていた。仕事が大変なのは分かるけれど、旦那さんが自分の都合だけで予定が決められる(と思っている)のが羨ましいって。
その話を聞いたとき、私は何で相談しないんだこの子の旦那め、と憤ったんだけど。
やっと分かった。その旦那さん、帰属の意識なんだ。上の世代の人のように。


自分が帰属していた家族の意識のまま、「母さん、俺今日外で飯食ってくるわ」って言うだけでよかった家族の意識のまま、当事者意識もなく「自分の家族」を「持って」いる。
他人の予定を気にして、他人の予定に合わせて自分の予定を決めるのは奥さん(=お母さん)の側だけ。
意地悪でそうしてるんじゃなくて、自分がずっと家族に対してそういうあり方をしてきたのを、素直に踏襲している。
もしくは父親がそう振る舞ってきたのを疑うこともなく真似している。
家の運営は奥さんに「相談される」案件であって、自分は当事者じゃない。
だから自分の予定は、自分だけで決める。好きに遊んでいた、高校生や大学生の頃のように。
たとえば奥さんがここ数日具合が悪そうで洗濯物がたまっていても、家の運営の進捗を見張る視点がないから、具体的に頼まれない限り、じゃあ自分が洗濯しよう、という考えが浮かばない。


これなー。せっかく大人二人いるんだから、もったいないのね。
家族の運営、一人でやってたらその人が倒れたらなにも回らなくなってしまう。
二人ともいるのなら、二人とも当事者でいいのにね。
大人が三人いれば三人が当事者でいればいいし、四人いれば四人。
その方がお互いが楽だし安心だし任せられるし、格好いい。チーム家族って感じ。


大人の定義って、社会の当事者である(社会の運営の側であると自覚している)ことだと思っているんだけど、そのあり方の最小単位が、家計の当事者なのかもな。
まずは自分の家族で、運営側に回ってみる。
上の世代がナチュラルに分業していたせいで我々があまり習う機会がなかったけども、こういう教育ってこれからは意外と大事かもしれないと思った。
帰属するだけだった「家族」と、きっと違う世界が見えるし、どうせコミットするなら運営の方が楽しい(楽じゃないけど楽しい)ってことも、味わえる気がする。

いかにして失恋から立ち直るかについて雹の日にトラバ

(元に合わせて改題)ほとぼりが覚めたころに突然のトラバ。


いかにして失恋から立ち直るかについて雨の日に考えてみた: 極東ブログ


――その節は失礼いたしました(いろんな箇所ですごい笑ったw


tweet探すの大変だったけど、これはまあそうだなあと思います今でも。
ちゃんみつ on Twitter: "男の失恋ってやっぱり女とは違うのだろうな。自分にも手痛い失恋とかあったけれどその相手に
いま会っても楽しいだけでわだかまりとか微塵も湧かないしもっと言うと興味がない。昔好きでよく行ったなああのラーメン屋さん、ってのと区別がつかない。"


私ごときが恋愛について語れることがあるわけがないんですが、よく言われててわりとみんなが納得してる「女は上書き保存で男は別名保存」だとか、
あとは、受精するときの膜融合?に精子一匹がたどり着いた途端他の精子が全部ブロックされるとか、そういうことから判断するに、基本的には一人の人にぱああって好きになるようなホルモンになってるんじゃないかと……知りませんけど。


でも多分だいたいホルモンのせい。
ホルモンが先か感情や思考が先かというと、多分にホルモンに左右されつつも、相互作用だとは思いますが。


女も別に長く失恋は引きずるけれども、次に本気で好きな人に出会っちゃったらもう過去の失恋はどうでもいいだろうなー。まあ自分が一般化できるとは思っていませんが(ねにもってない)なんかそう思う。



かたや、男性の失恋はなぜ残ってしまうのかというと、まあもちろんもともと同時に複数を愛せる性なのかもしれませんけれどそれはさておいて、
最終的には『自尊心』な気がします。


「この俺が振られるなんて!」とかじゃなくて。本当に、自分という存在に対する疑問。
己が信じ、己が信じた相手に信じられていると信じていた自分という存在が、最終的に受け取られなかったという帰結への「なぜ」。


魂を返却されたような気分になるのではないかなあ。
あなたは、わたしの、運命ではなかった、と。


もちろん女も同じ思いをするわけですが、どうもそのような自尊心というか理性というかを瞬間最大風速で追い越すホルモンの竜巻が発生するとその辺はどうでもよくなることがあるといいますか……


今更finalventさんの結論に反論するわけではないのですが、、男の人にとっての解決法は多分、

過去の失恋の対象をなつかしのラーメン屋化すること

いかにして失恋から立ち直るかについて雨の日に考えてみた: 極東ブログ

ではない気がします。
というか、出来ない気がするw
だってさ100人いたら100人にモテたいと思うのが男じゃん(そうでもない??)。
女みたいに興味ある人1人に好かれれば他はどうでもいいやっていうんじゃないから、たとえ興味がない相手でも1度でもリジェクトされたら、たとえその後100回モテてもその1回の記憶って消えはしないと思う。
ましてや一度魂を預けた人に返却された記憶っていうのは。たとえその後にもっと大きく受け止めてもらえても。



かといって自分に結論があるわけではないんですが、多分この話をしてたころより後に見た映画(何だっけ!!)で誰かがうまいこと言ってました。



運命の人は二人いるそうです。一人目は愛することと別れる辛さを教えてくれる人。
二人目は、永遠の愛を教えてくれる人。




――ひとが失う経験をしなければいけない理由ってなんなのかなあって思うけど、悲しみはないほうがもちろんいいけど、でも、失う経験にすら、出会えない生もたくさんあるんですよね。



魂を返却されることによって生きながらに死んだような気分になれるのが失恋の醍醐味ですが、そこまでになると、さすがに失う前には見えなかった世界や自分に出会うのは確かであって。
そりゃあもういちど死んで生まれ変わったのではないか自分、というくらいに。



だからってこういう理屈が立ち直る……よすがにはならないけれど、
失うことのあったひとの生は少なくとも、失うを得ることを許された、生きながらに自らがいちど死ぬという課題を越えられるとみなされた魂の運命を持っていたのでは、と。

小林秀雄対話集 直観を磨くもの  読書メモ

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

直観を磨くもの: 小林秀雄対話集 (新潮文庫)

最近自分でもバカだなーと感心することが増えた(ここ一年で本気で悔しかったのがスマホのゲームのボス戦であと一歩だったことだったりだとか)ので、なにかこう、頭のいい人のエキス(?)をもらえたらと思って読んでみました。
小林秀雄さん、もちろんお名前や教養人だったり評論家だったりって属性知ってますけれども、本当に一作も読んだことがなくてですね。対談集から読むのはどうなのと思ったけど、この自己啓発的なタイトルに釣られて読むことにしました。
なんか面白かったです。
で済ますと一つも覚えていないだろうと思うので、もう一度読みがてら感想を残そうかと。
多分こういう本、意識高い人しか読まないと思うんですよ。
底辺が読むとこうなる、みたいな感想だってあってもいいじゃない。要らないよね知ってる。まあ自分のメモです。
このエントリに、しばらく一対話ずつのんびり書き足していきたいです。

三木清「実験的精神」(1941年8月『文藝』掲載)

哲学者の方だそうです(存じ上げずごめんなさい)。
怒られるかなあ、戦時中に対談とかするんだ!しかもパスカルの話とか!っていうのにまず驚いた。すみません。
うーんイメージ出来ない。第二次世界大戦というものをもっと実感を持って知りたいなあとまず思ってしまった。
実感以前に表面的な歴史も知らないんであれですが。


パスカルには物事を原始的に考える実験的精神があって、というような話から、本を読むことが学問であるとするかのような教養主義の批判へ。
その対象に向かっているのは自分であると。そして自分の境遇は、立場は。その特殊性は。
そして誰かの本を下地に論ずるのではなく自分が事実にきちんと向き合うべきだ、というような話。
じゃあ実際どうやるの?と聞いてみたい気もするけど言いたいことが分かるには分かる。
でもさ、自分より頭がいい人がどうせ過去に一生懸命考えてるじゃない、と思うと本読んだほうが早いというか、それでいいじゃんみたいになるんだよね。
もしくは1,000冊読んでから自分の考えを考えようみたいな。車輪の再発明は要らないわけですし。
……なんてことをやっているうちに寿命が来ちゃうんでしょうねえとしみじみしてしまった。


でも、そうね、自分の個性で学問をやるっていうのはいいかもしれないね(特に文系)。
結局後の人は、その人の解釈なりものの見方を、時代や文化を含めたその人自身との対比で見るわけですよね。
「この人にはこう見えた」と。
それでいいんだなあとちょっと思った。
何かを論ずるにしてもつい「多くの人の支持」や「普遍」とか「共通見解」になるのを求めるものだけれども、
そんな、八方美人な、もしくは網羅的な解釈がどれほどの価値があるかというと。
そんなものは思想ではなくて人間まとめサイトなのかもしれない。
偏ろうがバカだろうがとにかく俺は、俺のスペックと俺の価値観で今物事が、こう、見えてる、という個人的体系が一本筋通って出来てるほうが、後々に寄与しそう。
人には見えてるものしか見えないけれども、どういうものしか見えない人であったのかという個性さえはっきりしてれば、後の人はその偏りを補正して解析できるものね。


あとは、「これ一つ書いて了えば死んでもいい」と思うような気持ちでものを書かないと、という話とか、ディアレクティック(弁証法)批判とか。
対話だけあって論点がいくつか平行してて、断片はみんな面白いんだけど突き詰めているわけでもないのでむずがゆい(笑)。
ヘーゲルを逆(作り上げられた体系)から読んで理解するのは違うんじゃないのみたいなことを小林さんが言ったり。おおお同意である。
こういう意見があってこういう意見に否定されて最終的にこういう見解になりました、とか、そんな死んだ説明は思想じゃねえよみたいな(そこまでは言ってない)。


これ一つ書いて了えば……は、三木さんはこの対談の四年後に投獄され獄死されたそうなので、こんなに清らかに大きく穏やかにものを見ていた知性が、戦争の中で弾圧されて死んでいくというのがリアルに実感されて、すごく悲しくなった。

(2014/04/12)

「好き」の劣等生

子供のころからやる気であるとか、精神力であるとか、エネルギーとかと無縁で
思い出すとあだ名が「平和」あげく「省エネ」だったことすらある私ですが、
ついにここ数年ですかね、起きると全てがリセットされていて、シャワー浴びながら
「自分はなんで生きてるんだっけ?」と問いかけるところから一日が始まるようになりました。


別に鬱ではなくてですね(極端に盛り上がらない代わりに盛り下がりもしない情緒の幅よ)、
寝てたら幸せだったのに私なんでいま起きてるんだっけ?みたいな。
まあシャワーを浴び終わると解決してるんですけどね。
答えを思い出したとかじゃなく、シャワーで体温が上がって身体が起動するので、起動するまえに感じていた「なんで」とか忘れる。


で、毎朝自分に問いかけるのもどうなのとやっと最近、違う人種だと思っていたエネルギーのある人たち、を観察するに、
やっと気付いたんですが世の中、自分が好きなことをやっている人だけがエネルギーがあるのね。
ああー。ですよねーーーーー。と膝を打った。


子供とかでたまにいるじゃないですか、この服絶対着ない、とか、今日はこっちがいい!!とか、
すごく幼いのにもう自分の好き嫌いがすごくはっきりしてる子。
自分が初めて目にしたときは何かの洗脳かと呆然としたのですが違うのね、気質として備わっているのねあれ。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。


呆然としたということは、自分はその対岸にいるような子供でした。
服も自転車もみんなお下がり、でも何の疑問も希望もなかった。
特別好きなものも嫌いなものもなかったなあ。選択をしようとしたことがなかった。


食べ物の好き嫌いとか、何々君が好きとか、どのバンドが好き、とかの好きはもちろん私にもありますよ。
そうじゃなくて自分に関わる好き嫌い。こだわり?
自分がそれを選んで気分がいいか、悪いかを敏感に察知する能力。
ないなー自分の中でそんなもの微塵も育ってないなー、と思った。


おしゃれでも何でもいいんですが、あれは「選ぶ」ことの繰り返しなのね。
本当に些細なことから、自分にとって何が心地いいのかを「選ぶ」
その積み重ねであったり、その重なりであったりが「好き」。


私にはそういう蓄積がない。
だいたいなんでもよかったから。
だいたい、極端に「ないわー」ってもの以外は同じに見えてたから。
ゆえに本当の「好き」もないんだなと。


あ、自分の好き嫌いを把握することとそれを表に表すことは別ですよもちろん。
把握したからっていつでもそれを優先しようとしたらただのだだっ子だけど、
それを優先できなくても把握だけはしている状態というのがあると思う。
私は、「この場で自分の好きを優先出来なくても把握だけはしている」という状態もなかった。
優先出来ない場合は最初から選んですらいないことが多い。どうせ優先できないなら気にしない(省エネ)。



とまあ、その辺にこのエネルギーのなさの原因があるんじゃないかと思って、
じゃあもっと自分の「好き」に耳を傾けましょう、という実験を始めました。
が、難しい。
というのもなんせ今まで大抵のものを「どうでもいい」か「気にしない」で過ごしてきてしまったので、容易にセンサーが働かない。
あと、たとえば2歳から既に明確な好き嫌いがあった人と比べて、30年以上分の「好き」の蓄積差があるわけです。
その人達は、蓄積があるから結構抽象的なこともすぐ選べるんですよ。その事前まで選んであるから。
でもそういう蓄積がゼロの私は、何十手も前の、もうすごくプリミティブなところから自分に問いかけないといけない。
どっちが好きなの?って。
「いやあ……どっちでも……あ、いけない!!!こ、こっ……ち?(夫に俺に聞くなという目で見られながら)」
のような辛い感じに。


でもまあぎこちないながら、面白いです。選ぶって面白いことだったんですね。
一歩一歩、自分を獲得していく気になるね。
逆にいうと、選ばなかった方を自分では「ない」と棄てていくことなんだね。
好きというのは対象との相互作用なんですなあ。
完全な自己があってそれが物言わぬ対象を選びとるのではなくて、より自分が「見える」方の対象に自分が吸い寄せられていく。
自分の習慣から自分が見えてくるように、自分が好きだと選択したものから自分というものが現れ出てくるのでしょう。知らんけど。


あとね、選ぶということは、自分を尊重するということなのだね。
これもなかなか難しい。
どうせ自分が何着ても一緒なんじゃないかと、服を買いに行くたびにどんよりするのをやめて、
自分にはこれだ、と自分に対して選んであげることだからね。大変なことだ。


まだ実験は始まったばかりで、どうも考察まで辿り着くのに20年くらいかかりそうな気がするけれど、
もし20年後に私がすごくやる気になってたら、それなりに効果あったということで。
(誰にも求められていない)

自己啓発書と蜘蛛の糸

自己啓発書というのは、私の世代だと、100社受けても採用されないのは自己責任と言われた就職氷河期の子達が
藁をも掴む思いで読み漁ったもの、というイメージだった(自分が悪いなら自分を変えなければいけないので)。
私も(単に趣味だったこともあり)色々読んだけれども、大体数人のアメリカ人が源流で後はバリエーションなので、一通り読むと落ち着く。
感想としては、それを他人への批判に使わないのであれば、大変に有用だと思った。
効率のいい思考方法というのはある。思想とは別に。無駄な怒りや落胆を持たないとかも含め。


で、もう若くもないのですっかりその辺のことは忘れて過ごしていたところ、
何年か前から「意識高い系(笑)」というネットスラングを目にするようになった。

「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書)
数年前からネットスラングにもなった、この「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈自慢、ソー活、自己啓発など、自分磨きに精を出し、やたらと前のめりに人生を送っている若者たちのことを指す。


だそうです。何となくは分かる。見てて痛々しい感じなのだろう。
自己啓発書にかぶれちゃった感じなのだろう。


彼らと同じ世代だったらそれなりのどん引きはしたと思うが、既に一回り離れちゃった自分としては、
そんなに笑えないことに気付く。
なんだろうね、その裏の必死さというか。それを支えている、自分には何もないという恐怖。


あとさ、意識高い系(笑)でも自己啓発(笑)でもいいんだけど、そうやってバカに出来るのは、
それらを必要としない環境に育つことが出来た人達なんだよな。


新卒の子達の年代までにね、彼らがしてきた「経験」というのは、ほぼ周りから与えられたものなのですよ。
いや、物心ついた後は本人のやる気だろ、と思われるかもしれないけど、やる気すら環境で作られる。
知らないものに対して、存在を教えられていないものに対して「やる気」なんて持ちようがないから。
生まれた地域、親戚の格、親の学歴や意識、通った学校etc.
そういった全てが、その子がどうやって世の中を見、どういう経験を主体的に選択していくかを作る。
(あと、親の愛という全ての基底なるものがあるけれどそれはちょっと別件)


極端な例だけれども、
東京の、マスからサブカルまで文化が容易に手に入る場所に育ちかつ親も社会的にそこそこの地位と向上心があり経験を増やすことを是とするような家庭と、
田舎の、テレビがメディアの主体で周りに向上心のある人間が存在しないコミュニティで育ち親も外の世界に興味が無く循環する時間をただ消費する家庭と、
どっちに生まれるかで子供の経験は全く違う。
情報の格差が必然的にあるので、前者は後者の存在を知っているけれど、後者は前者の存在を知らない(というか興味が無い)。


どっちがいい悪いというのではなく、お互いに親と同じ環境やコミュニティで生きていく分には親からの価値観や諸々を受け継げばいいだけなので何の問題もないのだけれど、
問題は、後者の環境に生まれた子が何かのタイミングで「外部」を知ってしまった場合。
無視して自分のコミュニティに帰れる子はいいが、そうじゃない場合。


自分には「何かが圧倒的に足りなかったのだ」ということに気付く。
(気付くというよりは、違う文化に軸足を移したことで、その文化から見た「不足」がその人の意識の中に生み出される)


そうすると焦る。何かしないとと。
自分がいままで居た場所の、周りの環境からは全く情報は得られない。
むしろ向上心を削ぐようなコミュニティや人しかいない。伝手なんて当然あるわけもない。
自分で自分を「救い出す」しかない。


で、助けてくれるのは何かといったら、万人に容易に手に入り、分かり易い言葉で説かれた自己啓発書だったりするんだよな。
(他にも謎宗教とかマルチの勧誘とか色々あるんだけれども、それらに幸いにして引っかからなかった場合)


自己啓発書はさ、アメリカ人特有の明るさというか、生まれた階層は関係ないよ、という励ましが根底にあるしね。
何もなくても、今から頑張れば何でもあった人と肩を並べられる気がするんだよ。


ちなみに、クラシックな宗教や思想や文学はそういう子を救ってはくれない。
それらが教えてくれることは自分の認知を変えることで足るを知ることであって、
自分の認知を変えずに足るを求める彼らにとって、それは負けなので。




まあ、意識高い系と揶揄される学生達がみんなそういう育ち方なわけじゃもちろんないだろうけど、
たとえばその子達が他の「意識低い」子達をバカにするのであれば、それは(過去の)自分への嫌悪の表れたったりするんじゃないかなあ。


まとまらんけど、そんなこんなで、自己啓発書の先に救いがあるわけじゃないけれど、一度はかぶれてみることを、私は否定出来ない。
とことんかぶれればいつか飽きるし、とことんかぶれる中で得るものも絶対あるだろうし。



それはきっと知識ではなく、自分がどういう人間なのか、ということに対しての理解じゃないかな。
全てを恵まれて育った人は向き合う機会を持たないであろう、それなりに貴重な何か。