旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

Lifebear推し(手帳アプリ)

メールの溢れるこのご時世、メール送ったでしょ(当然読んだよね?)ってのが許されるのは仕事だけだよねーという感じかと思うのですが、かといって懐かしの開封確認も鬱陶しい。
LINEの既読みたいなオートで表示されるのがいいんでしょうね。
既読スルーって言い方を女子大生から教えてもらいました。怖い。
あと夫が先日「俺なんか未読スルーだ」と言っていた。辛い。
(もう普通に日本語なんだね両方)

マンションポエムって命名が素敵

高級マンション広告コピー「マンションポエム」を分析する - デイリーポータルZ
なんて地道な調査!!


なるほどマンションポエムって言えばいいのか!と思ってググったら意外とあって、結構前から普及してた言い方なんですかね。この方が普及された?
私も気になってました。内容がないような文法がおかしいような雰囲気オンリーのコピー達。
正直あんまり教養のある感じには見えなかったんで、たっかいマンションの売り文句に使われて逆効果なんじゃないのと思っていたんですが、
雰囲気のコピーに惹かれる人は雰囲気でマンションも買ってくれる可能性があるんだから、正しいのか、という結論になりました。
広告のコピーごときに難癖つける人間とかどうせ客じゃないわな(おれとか)。

死後バレ

2chで何かを購入した人の個人情報が流出して匿名の書き込みと紐づけられてしまったという事件がありました。怖い。

 2ちゃんねるの有料会員サービス(2ちゃんビューア)で、深刻な情報流出が起きた。クレジットカード番号、セキュリティーコードに加え、匿名の投稿を特定できるデータが漏れてしまったのだ。

※この記事を選んだのはタイトルの「2ちゃん」て書き方がかわいかったから


その情報を入手して晒す方も、相手はさんざん匿名で荒らしまくってた人な訳だから容赦ない。
ネットは炎上してからが勝負ですが、クズもバレてからが勝負。


それとは関係ないんですが、先日これ((再掲) 人間の可能性を感じた時の話する:キニ速)を読んで、死後浮遊する魂ってあるのかなあとふと考えた。
とりあえず、死んで無にならない可能性。魂が残ってしまうことと死後の世界があることはまた別だけど、とにかく死んだからといって全てが精算されるわけでない可能性がね、どれだけあるかなと。

まあ、どっちでもいいんですけど、死後がね、もし死後がね、あったとしてですよ。
意外とリセットしなかった場合。


人間関係とか変わらなかったりしてね。
単にあの世チームに入っちゃっただけみたいな。おう、久し振り!みたいな。
だけど肉体があった頃より身軽に色々見聞きできるみたいな。全部知ってるぞ、と。
そういう可能性。


が、あった場合。

匿名なので書き込みは徐々にエスカレート。5分ほどで相手を誹謗(ひぼう)中傷する言葉が増え始めた。そこで教師が手元のボタンを1つ押す。するとチャット画面上に実名が表示され、楽しそうに騒いでいた声がやんで気まずい空気が流れた――。


元々世の中には特定の宗教の物語に定められた誰かに裁かれるとか、お天道様とか、色々ありますけれども、
それを信じていようがいまいが、万が一死後コミュニティがあった場合、結構お見通しというか、こういうボタンと同じ効果があると思うんですよね……。
ああーーーーーーーーーーーーっていう。


それを思うとあんまり筋を外さないで生きようかなって思った(保険)。
分かんないですけどね。バレすぎて却ってクズ同士みんな仲良くしようぜ、みたいなのがあの世なのかもしれませんけど。赦し合い。
そう出来たら素敵。



あとこのオジサン(自称)のこの言葉になるほどなと思った。

自殺なんてのはな根性のあるやつがするこった
それかよっぽどの壊れもんだ
良いも悪いも他人が口出しする事じゃあねえな
けどよ自殺するってのは生きてる他人の心を殺す行為になる事を知ってなきゃいかんな


自殺って、正直、お疲れさまでした−!ってのもあると思う。だから一概に悪だとは私は思えないんだけれど、だけど割り切れないなあと思っていた。
そうだなあ、縁をちぎられる周りの人の心なんだよね。引っかかるのは。
そういえば、死にたくなくて死んだ人よりも死にたくて死んだ人の方が成仏します(当て付けとかで死んだんじゃなきゃ)、って言う人もいて、それはそれでなるほど。
(感化されやすい)

『考える生き方』を読んだ。

こうやってブログ(じゃないのかダイアリーなのか)を書くのも久しぶりです。
(書き方忘れたのでだらっと行きます。)


大変遅ればせながら、finalventさんの本を拝読しました。



考える生き方

考える生き方



私がfinalventさんを知ったのは私がまだ全力ではてなを使っていた頃で、私が知るくらいだから多分既に有名人でした。
最初、思想の先生みたいな印象でした。ちょっと仙人っぽい感じ。
わたくしももうすぐ36歳らしいんですが、まだあの頃は20代だったりで、もうちょっと元気でした。
finalventさんのコメント欄やブクマで知った人とかとも仲良くなったりして、その縁はTwitterなんかで緩く繋がっていて、
自分にとってネットの一つのコアのような人です。
コアなんだけど一番よく分からない人(笑)。


私がはてなにもブログにも飽きてしまった後でも、ずっとネットの定点で思索を続けられている方。


finalventさんを通じて知り合った他の方々とは会ったり飲んだりして、お陰様で我々は親睦が深まったっていうのに
finalventさんはご本人はそういう所には出てきてくれそうにないし(そういえばTwitterやりましょうよというのもずいぶん絡んだ気がしますすみませんでした)、
まあそれはそれで萌えるのでまあいいかという感じで。
あ、そう、なんかですねネットアイドルだったんです私というか我々の中でfinalventさんて。萌え中年。
すっごい頭良くて何でも出来て何でも知ってるのに擦れずに優しくて弱くて中二っていう。理想です(何の)。


あと、作られる料理が美味しそう。
こういう旦那さんいたら楽しいだろうなあと思ってました。すごいめんどくさくてすごい楽しいと思う。
奥さんいたら絶対年下だろうなと思ってたんでそこは当たった!
(同年代や年下だったら鬱陶しいけど年上だと萌える性格ってあると思う。異論は認める。)



そんなfinalventさんが自分語りの本を出されたというので、おおやっと実体が!という感じです。
finalventさんを知らない人が読んで面白いかどうかは分からないけど、多分面白いと思う。
どういう人にとって面白いかどうかは後で書きます。



まず『考える生き方』という題名は、らしいなあと思いました。
上で書いたfinalventさんがめんどくさそう、っていうのは、finalventさんは一つ一つの行動に
いちいち理由が要りそうって(褒めてる)ことなんですけど、まさにそれを表しているようで。
その割には読みながら「別に考えてないですよね?」とか何回か突っ込んだ。
別に「先に」考える生き方って書いてないもんな(笑)。



立派な書評はたくさんあるだろうからもはや誰も見ていないだろうここで私は感想を書けばいいよな。



finalventさん、体系の人です。
体系として世界を把握する種族の人。学者さんに多いわけだけれど、全員じゃない。
学者さんのような人には、知に興味を持って知の対象に埋没したり没頭したりするタイプの人と、
自分との距離感で周りに知を張り巡らす人がいると思うのだけれど、後者だと思う。


(たとえば学者として)大成するのは前者の人だと思う。一点突破型だから。
いびつだろうが他がぼろぼろだろうが興味の対象に一直線で不安にならない人。
知を吸収するより知をクリエイトしてしまう性の人。いわば、素材みたいな人。
後の体系に組み込まれるべく、知の側から呼ばれているような人。
その人はそれだけやっていれば、足りないものは周りがどうにかしてくれる人。


後者の人は評論の人。知を整備する人。知に意味を与える人。歴史を丹念に追い、評価し、
現在をそれに照らして、それぞれの知を意味づけてくれる人。アーカイヴの意味を知っている人。
知をクリエイトするにしても、体系の補助線を引くように謙虚に、車輪の再発明にならない最低限のことだけをする人。



finalventさん、本の始まりで自分の人生を「空っぽ」って表現されているけれど、
本を拝読して、体系の人だから「空っぽ」に見えるんだろうと思った。
finalventさんはまだ、自分の世界観や人生観として張り巡らしたい知の体系の半分も埋まってないんだと思う。
埋まったとしても、体系って知の枠組みだから、世間に見える「成果」としては見えない。
自分の中に体系を持つ人と持たない人の違いって外からじゃ分かりづらいし。


で、そういう人、世の中に割といるのではと思った。
意味を一つ一つ、心の中に蓄積し続けているのだけれど、それは他の誰かを説得するためじゃない。
淡々と意味を受容していく人。
どんどん知識が溜まって、感情の揺れや愚かさを理解して、許して、優しくなって、その目線で世界を繋いでいる人。
少し、価値判断する人の孤独を抱えて生きている人。評論する人の、世の中の主体ではないことの孤独というか。
そういうものを持つ人に、とても響く本なのじゃないかと思った。


私もどっちかといえば、知を作る側というよりは体系側だと思う。ひどい劣化版だけれども。
あとfinalventさんの100分の1も物事に興味が持てない上に働かない残念脳なので、
知らない事は知ってる人に聞けばいいやと思っちゃうわけだけれども。



そういう人達は今の世知辛い時代だと何も世の中に働きかけてないように見えるのかもしれない。
保守的な人が多いから経済的に上手く立ち回れている人もそんなにいないだろうと思う。
そもそもこういうタイプの人は昔からお勉強が出来たはずで(知の体系を脳内に作れる人の方がお勉強は出来る)、
お勉強が出来るとはどういうことかというと頑張れば頑張るほどシステムの中で使われやすい人材になるということ。
システムの側じゃないのね。システムの側には「お勉強」だけじゃ辿り着かないから。
あと、学校の先生は全員システムに組み込まれている側の人だから、学校じゃ教われない。
というか先生達はシステムの側を知らない。
加えて親が二人とも公務員だったりサラリーマンだったりとにかく使われる側だと、
大人になるまでシステムの側の事を知らずに育つしね。地方の人なんてだいたいそうじゃないかな。私もそうです。



だから、一生勉強を頑張る。自分がより便利なように。よりよく使われるために。



私は、世の中にこれだけたくさんのビルがあるのに、その所有者の側に自分がなるという可能性は微塵も想像せずに育った。
所有されるために育ったのだろうな。地方ではそれを立身出世と呼びます。
(まあしかし私はそのより良く所有されるラインからも落ちこぼれた。すまん両親。)



あ、もしかしたらfinalventさんは知らないかも知れない。
世の中、わざわざ知を体系づけない人が半分以上です。これは私は結婚して知った。
結婚したら夫が何も考えてなかったて訳じゃなくて、理屈無しに私と同じ結論ってことがものすごく多くて。
どうやってそこに辿り着いたの?って聞いたら直感ですって。夫はそっちのチームだった。
提供出来る知がないからシステムの側にいるんだって。
自分には何もないから何かある人に働いて頂いて生きているんだそう。



彼は彼で空っぽ、だそうです。面白い。



私に世界のもう片方を見せてくれる人はfinalventさんではなくて夫だけれど
私の行く先にいる人はfinalventさんなんだと思う。
だからこの本は私にはとても参考になった。
自分の人生の色んなところで読み返したりするんだろうと思う。



そして、この本が要らない人、この本の意味が分からない人もたくさんいると思う。自分語り乙としか思わない人。
精神的にマッチョな人というのかな。特に体系の側じゃない人は、
知が何故これだけの喜びを人にもたらしたり人を支えたりするか分からないと思う。
そんなことよりも人生がやりたいことや作り出したいもの、消費したいコンテンツで溢れているもの。
要らない知は要らないよね。



(あ、でもねえ、自分の人生に自分が納得していることを記してくれる人って貴重ですよ。
昔、母の知り合いの女性が自費出版で自分の人生を綴ったっていうんで、義理で読んだんですけれど、
どんな自慢話をしてくれるのかと思ったら延々不幸が続いてて。それも避けられない不幸かっていうと自分から行っている感じの。
でも自伝を書くからには最後にどんでん返しが!と思ったら



「私はどこで間違えたのだろうか。」



で筆が置かれていまして。
何故そのタイミングでこの本を切り上げたのかと。
ここまで読んじゃった私はどうすればいいのかと。
怖くてその後一度も会えてませんその人に。
ある意味才能だけど。
今なら言ってやりたい。少しは評論して自分の人生を!!少しくらいうまい理屈で自己肯定して!!)



finalventさん、4人お子さんいるの楽しそうだなあ。
feecleっていうミニブログサービスがあって、そっちでfinalventさんに絡んでた時に、
やたら子供が大量に出てくる印象があって、近所でボランティアでもされてるんかいなと思っていたけれど、
ご自身のお子さんだったりしたのですね。


フリーランスのお父さんっていいですよね子育てにきちんと関わってて。もちろん誰もがそうできるわけじゃないけどね。
親の世代の男性の子育て論って、お前孕ませただけであと任せて働いてただけじゃんみたいな人に言われてもみたいな
昭和根性論が多くて聞く価値なかったけど、こういう人が子供はいいっていうのならいいのかもしれないと思った。


難病を抱えていらっしゃったり、同世代で亡くなられた方に思いを馳せたりされてて、
なんだかまとめに入られているところが無きにしもあらずというか、
元々体系の人だから自分の人生も意味づけてまとめちゃおうとしているところが見受けられるけど、
個人的にはあと50年は生きて欲しいです。


finalventさんの使命的にはまだまだこれからなんじゃないとか思うし。勝手に。
50代で物わかりいいのってどうなんでしょう。そういうもの?


たまに実家帰ったついでに小布施の葛飾北斎美術館とか行くんですけれど、
晩年の絵とか心底かっこいいです迫力あって(享年90歳)。
その頃の号なんて「画狂老人卍」とか入ってて、人生を総括する気ゼロですよね。
描きたいものがあったんでしょうね。目の前にずっと。


あと好きな指揮者にアルベルト・ゼッダさんという方がいらっしゃるんですが。
ロッシーニを愛して止まない84歳のイタリア人。汗びっしょりで全身全霊のアツい指揮をするんですが、
オケも場もガラっと変わってしまうくらいみんなが引き込まれる(今年も9月に来日されますが聴きたい)。
この人も多分総括とか頭にない。ずっと目指すものがあるのかなあって思う。



そりゃ、50歳や60歳で静かに亡くなってしまう方も多いだろうけど、
むしろ長生きしてこれくらい鬱陶しいのも素敵だと思うんです。まあ鬱陶しいけど。
(世の中には鬱陶しい可愛いというジャンルがあります大丈夫。)



finalventさんにこれからもどんどん知が蓄積されて、バランス良く世界を眺められて、
納得したり呆れたり笑ったり絶望したり許したりして暮らされるのかもしれないけど、逆に偏っていくのもアリだと思う。
希望も絶望もいいけれど、どうか好きなことを。



それで30年後とかにTwitterで50代相手に脊髄反射で「死ねよクズ」とか言ってても、
きっと我々は画面の向こうで大喝采で愛するでしょうfinalventさんを。
それで死んじゃったらその後半の総括は、何なら我々が適当にしておきますし後で。
(多分)とかたくさん入ってるかもしれないですけど。脳が足りないのでそこはすみません。



なんか読んだままの勢いで書いてすみません。
感想は推敲したら面白くないだろうしとりあえずあげちゃえ(言い訳)。
素敵な本をありがとうございました。
これからもfinalventさんの体系をずっと楽しみにしています。
私ももう少しは勉強して生きていきます。
あと娘さんについて詳しく教えてください。

「普通」の代償

普通に美味しい


などの表現が最上級、とはいかないまでも相当な賛辞を表すようになってわりと経った。
私も使う。


「普通に」つまり、
あなたもそう思うであろうとある程度確信できる程度には美味しいと私は思った、
という、自分の主観に世間の価値判断(と本人が感じているレベル)を取り入れた視点だ。

世間一般的に言ってこれは「おいしい」と判断されうるものでしたよ、あそこの店は


というより短く言えてよい。便利です。


まあ、かくも「普通」はレベルが高い。
だって、ざっと眺めて”美味しくない”って言っている人がいない店でしょ、「普通に美味しい」店って。
欠点がないんですよね。最低限。もちろん飛び抜けて美味しいわけでもないけれども!
平均点は当然クリアっていうね。



似てるようで全く関係ない話ですが、
最近我々世代やもっと若い人達が、「普通」の就職や、「普通」の結婚ができないことについて嘆かれている。
これはもちろん普通のハードルが高いからである。
親世代と暮らしていて勉強になるのは、本当に彼らの時代は、みんなで共通した「普通」のイメージを持っていたということだ。
みんな働き者で、世話好きで、一生懸命で、いい人。


普通に進学するために、苦手な科目も頑張ったね、スポーツも集団行動もこなしたね、青春時代を潰して勉強したね。大学に受かったね。
普通に就職するために、世間において有用である技術を身につけるために大学生活頑張ったね、より良く使われる為に資格も手にしたね、就職出来たね。
普通に結婚するために、恋愛も頑張ったし、お見合いも結構こなしたね。親戚に顔向けできる相手を選べたね。結婚できたね。
普通に子供をもつために、欲情する相手ではないけど、致したね。片方は仕事を辞めて、産んだね。ラッキーなことに五体満足だったね。一姫二太郎作ったね。
普通に生活するために、片方はプライベートもなく身を粉にして働いたね。もう片方は家事と育児と介護を全部やったね。


「普通」をコンプするコースは、だいたいそんな感じみたい。
まったくもって素晴らしいと思うんだけれど、
すごい、プライベートな時間潰してるなー、と正直思う。


「普通」、もしくは「人並み」。
手に入れたものには、ショバ代も、メンテ時間もかかる。そして、そこから派生するしがらみも(人付き合いって一番時間食うよね)。
自分が大好きだからではなく、自分が心底やりたかったからでもなく、ただ「普通」とされているから手に入れたそれらに、膨大な「自分」が侵食されていく。
そんなイメージ。


普通、それは多分、
高度経済成長期に、被雇用者として社会の肥やしとなるための人達に提示されたモデルなのだろうと思う。
つまり我々のほとんど。


しかし今は、未来が見えない今は、
世間の要求する「普通」にどこまで自分を明け渡すことができるのか。
そもそも世間は要求しているのか?上の世代が単に内面化した価値観を下に押し付けているだけではなくて?
彼らが我慢して「普通」に捧げてきた時間を、同じように要求しているだけではなくて?
そうまでして「普通」を獲得した見返りは、我々にはあるのか?


もちろん、「普通」であることのメリットも多い。
マジョリティーは選択肢が一番多いから。
保障も補償も保証も保険もあるね。


ただ、「普通」を手に入れたら、「普通」に自分は喰われていく。
それだけは確か。
そのバランス。どこまで自分にとって魅力的なのか?「普通」は。


このあたりが最近自問すること。
まあ結婚や子供は損得で考えるものじゃないよ(不謹慎だよ)!!
と言われてしまえばそれまでだけどねー。
いいじゃない考えたって。


ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5


先日ネットで見かけて、まあそんなもんだろうなとは思ったんだけど、
まあ例えばこの後悔が、「普通」の、代償。


であるとしたら、どう生きる?
どれくらい「普通」に、譲歩できる?


まあ、そうまでして惜しむほどの「自分」なり「自己」なり「人生」なりが無いかな、
と思うのもまた事実。早く肥やしになれよ私、みたいなね。

言わない人たち(意見と誤答2.0)

社会学的にどういう名前が付いているのか知らないのだけれど、
ある組織内の弱者と位置づけられる人たちが、体制側の論理を身につけて、または内面化して、自分を納得させることがある。


ひどい待遇で働いている非雇用者が、経営側から自分を見て、
コストを抑えるためには自分の時給換算の給料がこのへんに抑えられなければならないと納得している、とか


正社員の半分も生活の保証も手当もないバイトの人が、その人の生活を慮りもしないその組織の成果物の品質向上に邁進するとか


金を作り出す手段のない人が、そういう人を安く使って成り上がった成功者を礼賛したりとか。


本当は、「私は大変だ。虐げられている。搾取されている。寄越せ!」
と言っていいような人たちが、言わずに、体制側の理論を自分にインストールしてしまう。


これは一つには、クラスチェンジへの布石として行っているように見える。
資本主義社会において雇われである限り、ストをしようが組合を作ろうが自分の自由には限界がある。
そんなことより体制側の理論を学んでうまく立ち回り、
早くそちら側(つまり、システムの側)にクラスチェンジしよう、としている場合。


しかし、そうでもない場合もある。
単に、クレクレいうのが、恥ずかしいと思っている場合。
体制側にバカにされたくないと思っている場合。
自分がこれ以上を望むことは、身の程知らずであるに違いないと思っている場合。
世の中を知らないと思われたくないと思っている場合。
etc.



意見、というのは自分の視野や知識、及び経験、そして立場に左右される。
そして、一人の人が全ての意見と全ての立場を持つことは出来ない。
故に、誰の意見も少なからずポジショントークであり、偏っている。


そして、基本的に、世の中はそれでいい。


どんなに「観測範囲」を広げても、一人の人間が全ての見識を網羅することは出来ない。一つの分野ですら、一生かかっても不完全だ。
全ての見識を網羅してから、勉強してからなんて言っていたら、
一生かかって一言も発言出来ない。


一人で100識っている人を作れないかわりに、
偏った異なる意見を持つ人が100人集まる。
そしてその議論の妥協点を見つけ、論理的整合性を整理する人がもう100人。


そうやって、議論を重ね、世の中で物事が決まる。


個々人は自分の視野で、自分の立場で、自分の経験で自分の意見を訴える。
反論は他の人が出してくれる。
否定も他の人がしてくれる。
対案も他の人が提案してくれる。


だからこそ安心して、「今の」自分が思う全てを言う。
そして感謝して、反論や否定により意見を修正する。



ウェブによって、そういった仕組みがもっと整理されるはずだった。
と、私は思った。


しかし、今どちらかというと行われているのは、
100人の偏った意見の人達による冷静な議論などではなく、
誰が一番視野が広いか、誰が一番経験をしているか、誰が一番海外の例を知っているか、誰が一番数字を知っているか、誰が一番経済を知っているかetc.競争だ。


意見は議論されない。揉まれない。止揚されない。
最初から思慮深いものであることが求められる。
軽はずみに発言するとバカだと思われる。
自分で浅薄な発言と分かるものについてバカにする。


そしてみんな口をつぐむ。
議論は否定されない。
そのかわり、その人の人格が否定される。属性が否定される。立場が否定される。
お前は所詮視野が狭いからそのようなことが言えるのだ、と。
そう言われるのを恐れる人たちはいつしか、
一番の権力者(バカに出来る側)である、体制側の意見になる。


例えば放射能汚染について。
成人男性・子供を産む気のない成人女性と、将来可能性を考えている女性・妊婦・小さいお子さんを持つ男女だと
恐れる範囲が全く違う。
前者の人たちは社会的視野で余裕を持って眺める事ができるので、
冷静に効率を考えてパニックを引いて眺める。
後者の人たちは自分事であり、かけがえのないわが子の未来のことであるので、社会的にどうかではなく、自分の人生としてどうかと真剣に悩む。
体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。



例えば原発の是非。
主に経済系の人や企業に勤めている人たちは自分の置かれている経済情勢を鑑み、
昨年までの経済活動を継続し、日本から企業を撤退させないためにも、
すぐに停止することは考えられないと思う。
片や主婦であったり学生であったりする人たちは福島第一原発で起きた惨状を見て
ここ何十年かの繁栄の為にその先百年が犠牲になる可能性を恐れ、
まずは停止してどうにか代替案がないか模索していくべきだと思う。
体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。



そんな人達の周りで多くの人が口をつぐむ。
ひたすら情報を貯めこみ、視野を収集し、脳内で計算を続ける。
「何が正しいのか」
それが出るまで。
バカにされない意見が言えるようになるまで。


PLUTO (1) (ビッグコミックス)というマンガの中で、
アトムは一度、起きなくなってしまう。
機能は問題なく、あらゆる情報を持っているのに、目覚めない。
脳が無限のシミュレーション状態になり目覚めなくなってしまったのだ。
目覚めを決めたのは、
ある偏った感情の注入だった。


ウェブによって、人はより、偏っていていい存在になったと思う。
そして、より、好きなことだけしていていい存在になったと思う。
誰かが出来ないことは他の誰かが出来るということが、見える世界が始まった。


だけれどそうである世界は、自分のあり方も変えていかなければならない。
自分が淘汰される存在であること。自分が止揚される存在であること。
ある分野ではその体制の上の方にいたとしても、
他のあらゆる分野ではあらゆる否定を受ける側の人間であること。
それは存在の否定では全くないこと、むしろその分野の糧となっていくこと。
そうやって助け合い、教えあいながら生きて行けること。



私は最近のウェブが好きだ。
罵倒、デマ、不安、感謝。
震災によって、人の素が前より少し見えるようになった。
みんなが自分を少し、出すようになった。
人としての不完全さを恐れなくなった。


その芽を、バカにすることで摘んでしまわないように
存在を肯定し、意見を出すことをリスペクトし、
その上で、お互いに礼儀を持って、
議論を本気で戦わせることができたら、素敵だと思う。