旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

「好き」の劣等生

子供のころからやる気であるとか、精神力であるとか、エネルギーとかと無縁で
思い出すとあだ名が「平和」あげく「省エネ」だったことすらある私ですが、
ついにここ数年ですかね、起きると全てがリセットされていて、シャワー浴びながら
「自分はなんで生きてるんだっけ?」と問いかけるところから一日が始まるようになりました。


別に鬱ではなくてですね(極端に盛り上がらない代わりに盛り下がりもしない情緒の幅よ)、
寝てたら幸せだったのに私なんでいま起きてるんだっけ?みたいな。
まあシャワーを浴び終わると解決してるんですけどね。
答えを思い出したとかじゃなく、シャワーで体温が上がって身体が起動するので、起動するまえに感じていた「なんで」とか忘れる。


で、毎朝自分に問いかけるのもどうなのとやっと最近、違う人種だと思っていたエネルギーのある人たち、を観察するに、
やっと気付いたんですが世の中、自分が好きなことをやっている人だけがエネルギーがあるのね。
ああー。ですよねーーーーー。と膝を打った。


子供とかでたまにいるじゃないですか、この服絶対着ない、とか、今日はこっちがいい!!とか、
すごく幼いのにもう自分の好き嫌いがすごくはっきりしてる子。
自分が初めて目にしたときは何かの洗脳かと呆然としたのですが違うのね、気質として備わっているのねあれ。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。


呆然としたということは、自分はその対岸にいるような子供でした。
服も自転車もみんなお下がり、でも何の疑問も希望もなかった。
特別好きなものも嫌いなものもなかったなあ。選択をしようとしたことがなかった。


食べ物の好き嫌いとか、何々君が好きとか、どのバンドが好き、とかの好きはもちろん私にもありますよ。
そうじゃなくて自分に関わる好き嫌い。こだわり?
自分がそれを選んで気分がいいか、悪いかを敏感に察知する能力。
ないなー自分の中でそんなもの微塵も育ってないなー、と思った。


おしゃれでも何でもいいんですが、あれは「選ぶ」ことの繰り返しなのね。
本当に些細なことから、自分にとって何が心地いいのかを「選ぶ」
その積み重ねであったり、その重なりであったりが「好き」。


私にはそういう蓄積がない。
だいたいなんでもよかったから。
だいたい、極端に「ないわー」ってもの以外は同じに見えてたから。
ゆえに本当の「好き」もないんだなと。


あ、自分の好き嫌いを把握することとそれを表に表すことは別ですよもちろん。
把握したからっていつでもそれを優先しようとしたらただのだだっ子だけど、
それを優先できなくても把握だけはしている状態というのがあると思う。
私は、「この場で自分の好きを優先出来なくても把握だけはしている」という状態もなかった。
優先出来ない場合は最初から選んですらいないことが多い。どうせ優先できないなら気にしない(省エネ)。



とまあ、その辺にこのエネルギーのなさの原因があるんじゃないかと思って、
じゃあもっと自分の「好き」に耳を傾けましょう、という実験を始めました。
が、難しい。
というのもなんせ今まで大抵のものを「どうでもいい」か「気にしない」で過ごしてきてしまったので、容易にセンサーが働かない。
あと、たとえば2歳から既に明確な好き嫌いがあった人と比べて、30年以上分の「好き」の蓄積差があるわけです。
その人達は、蓄積があるから結構抽象的なこともすぐ選べるんですよ。その事前まで選んであるから。
でもそういう蓄積がゼロの私は、何十手も前の、もうすごくプリミティブなところから自分に問いかけないといけない。
どっちが好きなの?って。
「いやあ……どっちでも……あ、いけない!!!こ、こっ……ち?(夫に俺に聞くなという目で見られながら)」
のような辛い感じに。


でもまあぎこちないながら、面白いです。選ぶって面白いことだったんですね。
一歩一歩、自分を獲得していく気になるね。
逆にいうと、選ばなかった方を自分では「ない」と棄てていくことなんだね。
好きというのは対象との相互作用なんですなあ。
完全な自己があってそれが物言わぬ対象を選びとるのではなくて、より自分が「見える」方の対象に自分が吸い寄せられていく。
自分の習慣から自分が見えてくるように、自分が好きだと選択したものから自分というものが現れ出てくるのでしょう。知らんけど。


あとね、選ぶということは、自分を尊重するということなのだね。
これもなかなか難しい。
どうせ自分が何着ても一緒なんじゃないかと、服を買いに行くたびにどんよりするのをやめて、
自分にはこれだ、と自分に対して選んであげることだからね。大変なことだ。


まだ実験は始まったばかりで、どうも考察まで辿り着くのに20年くらいかかりそうな気がするけれど、
もし20年後に私がすごくやる気になってたら、それなりに効果あったということで。
(誰にも求められていない)

自己啓発書と蜘蛛の糸

自己啓発書というのは、私の世代だと、100社受けても採用されないのは自己責任と言われた就職氷河期の子達が
藁をも掴む思いで読み漁ったもの、というイメージだった(自分が悪いなら自分を変えなければいけないので)。
私も(単に趣味だったこともあり)色々読んだけれども、大体数人のアメリカ人が源流で後はバリエーションなので、一通り読むと落ち着く。
感想としては、それを他人への批判に使わないのであれば、大変に有用だと思った。
効率のいい思考方法というのはある。思想とは別に。無駄な怒りや落胆を持たないとかも含め。


で、もう若くもないのですっかりその辺のことは忘れて過ごしていたところ、
何年か前から「意識高い系(笑)」というネットスラングを目にするようになった。

「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書)
数年前からネットスラングにもなった、この「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈自慢、ソー活、自己啓発など、自分磨きに精を出し、やたらと前のめりに人生を送っている若者たちのことを指す。


だそうです。何となくは分かる。見てて痛々しい感じなのだろう。
自己啓発書にかぶれちゃった感じなのだろう。


彼らと同じ世代だったらそれなりのどん引きはしたと思うが、既に一回り離れちゃった自分としては、
そんなに笑えないことに気付く。
なんだろうね、その裏の必死さというか。それを支えている、自分には何もないという恐怖。


あとさ、意識高い系(笑)でも自己啓発(笑)でもいいんだけど、そうやってバカに出来るのは、
それらを必要としない環境に育つことが出来た人達なんだよな。


新卒の子達の年代までにね、彼らがしてきた「経験」というのは、ほぼ周りから与えられたものなのですよ。
いや、物心ついた後は本人のやる気だろ、と思われるかもしれないけど、やる気すら環境で作られる。
知らないものに対して、存在を教えられていないものに対して「やる気」なんて持ちようがないから。
生まれた地域、親戚の格、親の学歴や意識、通った学校etc.
そういった全てが、その子がどうやって世の中を見、どういう経験を主体的に選択していくかを作る。
(あと、親の愛という全ての基底なるものがあるけれどそれはちょっと別件)


極端な例だけれども、
東京の、マスからサブカルまで文化が容易に手に入る場所に育ちかつ親も社会的にそこそこの地位と向上心があり経験を増やすことを是とするような家庭と、
田舎の、テレビがメディアの主体で周りに向上心のある人間が存在しないコミュニティで育ち親も外の世界に興味が無く循環する時間をただ消費する家庭と、
どっちに生まれるかで子供の経験は全く違う。
情報の格差が必然的にあるので、前者は後者の存在を知っているけれど、後者は前者の存在を知らない(というか興味が無い)。


どっちがいい悪いというのではなく、お互いに親と同じ環境やコミュニティで生きていく分には親からの価値観や諸々を受け継げばいいだけなので何の問題もないのだけれど、
問題は、後者の環境に生まれた子が何かのタイミングで「外部」を知ってしまった場合。
無視して自分のコミュニティに帰れる子はいいが、そうじゃない場合。


自分には「何かが圧倒的に足りなかったのだ」ということに気付く。
(気付くというよりは、違う文化に軸足を移したことで、その文化から見た「不足」がその人の意識の中に生み出される)


そうすると焦る。何かしないとと。
自分がいままで居た場所の、周りの環境からは全く情報は得られない。
むしろ向上心を削ぐようなコミュニティや人しかいない。伝手なんて当然あるわけもない。
自分で自分を「救い出す」しかない。


で、助けてくれるのは何かといったら、万人に容易に手に入り、分かり易い言葉で説かれた自己啓発書だったりするんだよな。
(他にも謎宗教とかマルチの勧誘とか色々あるんだけれども、それらに幸いにして引っかからなかった場合)


自己啓発書はさ、アメリカ人特有の明るさというか、生まれた階層は関係ないよ、という励ましが根底にあるしね。
何もなくても、今から頑張れば何でもあった人と肩を並べられる気がするんだよ。


ちなみに、クラシックな宗教や思想や文学はそういう子を救ってはくれない。
それらが教えてくれることは自分の認知を変えることで足るを知ることであって、
自分の認知を変えずに足るを求める彼らにとって、それは負けなので。




まあ、意識高い系と揶揄される学生達がみんなそういう育ち方なわけじゃもちろんないだろうけど、
たとえばその子達が他の「意識低い」子達をバカにするのであれば、それは(過去の)自分への嫌悪の表れたったりするんじゃないかなあ。


まとまらんけど、そんなこんなで、自己啓発書の先に救いがあるわけじゃないけれど、一度はかぶれてみることを、私は否定出来ない。
とことんかぶれればいつか飽きるし、とことんかぶれる中で得るものも絶対あるだろうし。



それはきっと知識ではなく、自分がどういう人間なのか、ということに対しての理解じゃないかな。
全てを恵まれて育った人は向き合う機会を持たないであろう、それなりに貴重な何か。

一日を二度使う/仕える

自分の仕事の定時は10時−18時で、昼も入れてだけど8時間。
自分が寝るのが大体午前2時なので、そこから帰宅やら夕飯やら家事やらが18時−2時で8時間。
残りは睡眠とか朝の準備とか諸々。


仕事が終わったーさあ帰ろう、というところから自分としては既に一日のロスタイム消化の気分になっているというか、
なんとなく流す方向の気分になっているんだけれど、
本当は仕事してるだけと同じ時間はある。


2回ある8時間を、どう使うか、誰のために使うか、はその人の社会や家庭での役割による。
第2の人生、とかって、たとえば定年前と定年後に人生を分けなくても、
平日と週末に、仕事とプライベートを分けなくても、
1日、となんとなく呼んでいるものは2回なにかを出来るだけの長さがある。


そう思うと私は「2回目の1日」の方を上手く使えてないなー、としみじみ思います。
まあ生産性が高くある必要はないのだろうけどさ。特に仕事じゃなきゃ。


ところで、どんなに自営で仕事を楽しんでいても、会社がブラックで家に帰れなくても、
8時間労働を終わった後に、もう8時間同じことをするのは嫌だと思う。たまにならともかく、毎日は。
効率もすごく落ちるだろうし。


そんなことを考えてたら、先日ホッテントリ経由で下記の記事を拝読した。

主人が帰ってきても、振り向きもせず、抱っこしながら、泣きながら、
ひたすら眠ってくれるように揺れていた自分がいました。


このあたりの日々は、毎日夜が来るのが怖くて、主人が早く帰ってきてくれるよう祈ってました。


ああ、一人でやっているお母さんは、8時間労働の後に、同じ8時間を繰り返しているのだなあと思った。
旦那さんが帰ってきて、旦那さんは1日の仕事を終えていて、その後にまだ。
(寝られてないから、2ターン以上かな。)


私は子供がいないので想像出来ないけれど、
どんなにその仕事が好きでも、1日の仕事が終わった後に同じ1日を連続でやる毎日は嫌だなあ。
イライラするわ。しかも何一つ自分の思い通りにならない案件相手に。


一人でいつまでも耐えられることではないですわね。


じゃあ旦那さん、って訳でもなくて、Twitter

育児に行き詰ったとき旦那に頼ってはダメだ、心身ともに夫婦共倒れになる、と今日三児の母が言ってた。


と教えてもらいました。深い。
いやあ旦那さんも最初の8時間(以上)を終えてからの、だからなあ。
疲れ度は一緒。


外部サービスだいじ。



ところで関係ないけど、赤ちゃんが寝ないと困る、というのは完全大人の都合な訳ですが、
(そもそもフリーダムに生きている物体を社会時間で動くニンゲン、にするのが育児でしょうけれど)
別に寝なくてもいいや好きにしろや、ということだとどういうサイクルなんだろうと聞いたところ、友人のところは

経験からすると寝ても4時間以内には必ず起きる。なので、夜中は必ず2回ぐらい起きておっぱいタイムがあるね、うちの場合。逆に昼でも4時間以上起き続けてることもない(外部刺激にもよるが)。なので、昼寝タイムは必ずある感じ。


だそうで、なにその理性的な生活。私がしたいわ。
朝型か夜型かなんてそんな低レベルな話じゃなかった。
時間を決めずに食う寝る遊ぶ型。


生産性とか言ってるうちはまだまだなんだなあと思い知らされます。
結局、大人になるにつれ失われた自由を自らの意志で取り戻す戦いが人生というものなのかしら。
生まれた頃のように、24時間をフリーダムにまた生きられるようになったら、上がりですかね。
(ずいぶんと話が逸れた)

ブルーレイディスク用の不織布ケースを買う

ブルーレイディスクを保管する際に、ディスク収納用のジュエルケース(厚さ10mm)やスリムケース(厚さ5mm)などを使用するか、スピンドルケースでディスクを重ねて保管することはディスクの記録面がケースに接触しないので問題ありませんが、いわゆる不織布ケースで保存することはおすすめできません。

数ヶ月前にネットでも話題になりましたが、ブルーレイディスクを一般的な不織布ケースで保存するとあまり良くないよという話。
不織布は表面がデコボコしているので長期で積んでおくとエンボスが刻印されちゃうのでしょうかね。
(ブルーレイのスピンドルを買うと、不織布ケースで保管するなと必ず注意書きがある)
かといってジュエルケースやらスリムケースやらは場所取って無理です。うちは。
正直詰め詰めにでもしない限り縦置きしておけばそんなに圧力かからないんじゃないのと思ってスルーしてたんですが、最近、一応ブルーレイ対応を謳う不織布ケースが出てきてたので買うなど。
ひたすら専用引き出しに入れていくのでバインダー式ではなく普通に個別のやつを。


日立マクセルのを買いました。
http://www.yodobashi.com/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB-Maxell-FBDI-50WH-%E4%B8%8D%E7%B9%94%E5%B8%83%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%82%B9-%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E4%B8%A1%E9%9D%A2-100%E6%9E%9A%E5%8F%8E%E7%B4%8D-%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88/pd/100000001001763199/
Amazonに売ってないのよねえ。ヨドバシは送料無料なので。あとすぐ来た。)
一般の不織布に比べて、まあきめ細かいです。この差で大丈夫なんかい、と思うんだけれども、
「当社試験により確認済み。」とケース裏に記載してあるので、大丈夫ということにしておこう。
ニュースリリースもがんばりました。↓
http://www.maxell.co.jp/jpn/news/2013/news130613.html




そしてビクターでも出してます。こっちはAmazonにある。

単価的には倍近くするけどこっちの方が多分マクセルのよりつるつるしているんじゃないかな。と思う。


両方ともバインダー式もあるよ。


あと、

こういうケースもあるけれど、保存用にタイトルバーとかは欲しかったので今回は除外。



個人的には、一番上に引用したビクターアドバンストメディアのスタッフブログさんの、どうしても不織布にしたいなら不織布でも行けるBDあるからこれでどうだ、っていう、ケースじゃなくてメディアをお薦めしちゃう姿勢が好きです。


しかし私はメディアは最近ずっとこれをリピートしている。焼きミスもないしコスパ良いし。



同じライン(?)でハードコートと言われちゃうとちょっとこれから迷うところだけれどもね!

家庭基準普通消費量について

信州で育って、大学で初めて他県に出たのだけれど、そこもまあ田舎で、
というか東京には長野より遙かに出やすいのだけれど交通が不便といういわゆる陸の孤島で、
基本的には、特に刺激のない景色の中で日々を暮らす場所だった。
長野から出てきた私には別に生活が変わったわけでもなく、休日に近所を歩いたところで何もないのは長野とは変わらず、しかしやる気出せば東京には余裕で行けるその場所は便利だなあなんて感じていたのだけれど、
東京育ちの人のそわそわ度が酷かった。鬱憤が。曰く、物がない、らしい。


ああこの人達は学校の帰りに寄るところだとか、休日にちょっと出れば楽しいショッピングが出来る場所だとか、レストランだとか、何かこう、刺激というか、キラキラした何かがないと死んでしまうのだ、と知った。


私は消費すべき物が、その供給量が、自分の需要を超えて潤沢に存在する場所に育ったことがなかったので、ああ、そういうものが受け取れ、自動的にそれが更新される場所に育った人は違うなあと思った。
やっぱり供給量が多いから、一日の、というか人生の時間の中で消費に充てる分量が多かった。私より。
読書だけは田舎育ちも都会育ちも変わらないのだけれど、他がね。映画とかイベントとかそういうリア充的なあれ。
(もちろん親の習慣やお育ちの階層にも左右されるのだけど、どのみちそれは消費するコンテンツに溢れてる都会での話)


まあ、大学は勉学をする場所であるので、その田舎は勉学をするには多分適した場所であり、都会に育った友人達もそれは充分分かっていたので、さっさと諦めたり切り替えたりしてその分勉強に集中してはりましたけども(結果私よりもずっと)。


でも、最後まであの場所が馴染まなかった人もいたかなあ。ほぼ毎週末東京に帰ったりとか。


とにかく、他者から供給される、他者によってお膳立てされたコンテンツの消費量というのは育ちによって違うのだなあと初めて知った経験だった。
それぞれみんなそれが「普通」なんだけどね。
コンスタントに遊びに行く場所を探すのか、旅行も定期的に行くのか、はたまた特別なイベントでもなければ何もないのがデフォルトか、それぞれに習慣。



月日は流れ、結婚したら、転がり込んだ先のお家の食生活が、カロリー的に多分実家の1.5倍あった。
うちはどうやら草食家庭だったらしく、肉や揚げ物ってそんなには食べなかった。
肉は一週間に二、三度度食べるかで、揚げ物は月に一、二度とか。
魚と野菜は大好きだったんだけど。
あとおやつを食べる習慣がなかった。特に誰も買わなかった。


嫁ぎ先は男兄弟を育てた家だったので、肉ばかりではないけれども「食べた気のちゃんとする」料理が毎度と、あとはデパ地下などの美味しいお店をみんなたくさん知っており、コンスタントに家に甘い物があった。
わたくしは順応性だけが取り柄であるので、疑問なくその食習慣を受け入れた。
ところ、瞬く間に5kg太った(当然私だけ)。


(納得いかないまま今に至る)


それまでに培われた私の代謝が省エネ過ぎて、肉食家庭にまったく適応出来ていなかったのでした。
あああ、これもまた「普通」消費量の差なのかと実感した。
そこからの類推として、世間の「痩せない」人がなぜ痩せないのかも分かった。
その人が「普通」だと思ってる消費量が、多分普通じゃなくて、多い。
何の気なしに普通に選んでるその飲み物、小腹が減ったときに普通に口に入れる食べ物。
その積み重ねの差。習慣の差。普通の差。


小さいお子さんのいるおうちとか、家族全員で似たような体型していることが多いけれど、
その家の普通が作り上げた体型と言える。


何の消費に時間を割いているかがその人を作る。
その習慣は最初は家庭で作られる。
同じ習慣を何の疑問もなく通せば、親とだいたい同じ人生になる、かもしれない。
どこかでその習慣を見直す機会があれば、違う人生になる、かもしれない。


今の時代は田舎や都会にかかわらず平等に消費できる「インターネット」があるので、
親と同じ時間消費の仕方をしている人は少ないかもしれない。
まあ、テレビを見ていた時間がそれになっただけかもしれないけれど。


何がどうっていうんじゃないけれど、面白いなあと思います。
どういう習慣を持つ人なのかな、というのは面白い。


ちなみに私はほとんど習慣がなくなってしまって、
仕事以外はネットか寝てるか食べてるか。その全てが不規則。
習慣が人を作る、とはよく言われるわけですが、まああからさまに何も作ってない。

内にこもる誘惑

web2.0とかフラット化する社会とか言われていた頃に(この言葉達は今も好きだな)、私がイメージしていたのは、コロニーがたくさん出来るなあ、だった。
好きなことや境遇が似てる人達の塊が平面上に無数に存在してそれぞれ好きなところと線で繋がっている感じ。

多様な情報にあふれるウェブで感じるのはほんと、
人間嫌いなことやってる時間ってないのね。
やりたくないことやってる時間がない。
苦手なことができるようになってもそれで儲かりはしないしね。
苦手なことは誰かが得意で、
嫌いなことは誰かが好きなのね。
安心してみんな自分の好きな方法で社会に貢献すればいいし、
趣味に走ればいい。


(中略)


まあ、来年どうなるかはわかりませんが、


みんな好きなことやりなー。


そして他人に、好きなことを許しなー。

2008年年末のPOSTっぽい。遠いような変わってないような。
基本的にはずっと同じこと思ってはいます。
オールマイティーとかユーティリティーが楽しいって人はいいんだけど、そうじゃない人は全部を頑張らなくていいんではないか、と。


ただ最近は、あんまり世界が狭いのもどうかとは思いました。
新聞を読まなくなって2年くらいなのだけれど、さすがに知りたい情報しか入ってこないね。てか殆ど知らないね!大人として威張ることじゃないけども。
昔はリアルとウェブで世界が別れていて、ウェブの人達はそれでもリアルより広く(深くは無理だな)モノを知っている、という自負が見えたりなどもしたのだけれど、
こうまで情報発信&受け取りツールが充実して、Twitterもすっかりキャズム超え(この言葉自体なつい)して、読みたいコンテンツを消化しているだけで一日なんて足りない。


もちろん、好きなことに集中するのはいいことで、好きなことを極めることで、そこから見えてくるものはあるのだけれど。
(全ての山の中腹までしか登ったことない人より、一つの山の頂上まで登った人のほうが他の山やその頂上との交流はしやすかろう)


で、まあ、どこに戻るかというと教養ですよ、か?
うーんそれも何かな。いや、必要だし欲しいけれども。


ところで最近ログが楽しい。ライフログ
少し前まではTwitterとかFacebookに載せるのが楽しかったんですよ。
これ美味しかった―とかこれ綺麗!とか。
今もそれは楽しいんだけど、一番楽しいのは自分だけで楽しむログだと最近しみじみ思う。
UP用に角度加減して接写した美味しい食べ物の写真じゃなくて、食卓のテーブル丸ごと撮った雑多な感じの適当なスナップやら、
「出社した」とか「寝る」とかの行動記録やら。
他人には当然どうでもいいし、自分で見返しても心底どうでもいいんだけど、なんか楽しい。
自分というコンテンツを一日一日、過去に縫い付けている感じ。


別に、総括も解釈もしないけれども。
ああ、一応生きてたわこの人。生きてなんかやってたわ、と思う。


この楽しさはなんだろうなと。
ネットという同じツールを使っていながら、誰とも繋がっていない場所があるのが嬉しいんかね。


そんなことをやっていると、自分のログか、自分の興味あることか、にしかウェブを使わなくなって、良くないなあでも楽しいなあと、そんな板挟みなこの頃です。
別に悩んでるほどではないけれど。


アメリカの田舎に住んでたりするとこうなんだろうなーと想像する。
テレビ局が数百チャンネルから選べて、ニュースは周りの人の解釈を通して入ってきて、
自分が繋がってる人だけの価値観で自分が安心して暮らしている感じ。
温くて、温かくて、多様性がないから死ぬときは全員で死ぬ感じ。


と、ここまで書いて分かった。
なるほど、自分の居心地のいい、に特化したコロニーに私が居着いたとして、
その多様性のなさ故にある日やってきた一つの病原菌に対して全く耐性がなかったとして、
ああ、その時は死ねばいいのか。


コロニー一つ消えたところで世界にとっては単に淘汰の過程。
適者生存、それ以外の方お疲れ様でした!


なるほど死にたくない人は、世界を俯瞰するわけだ。
自分(達)をなるべく外から、外から判断する。
国外へ目を向け、歴史を学び、広く、遠く未来を見通そうとする。


ああそっちがいいなあ、いいんだろうなあ、と思う。死なないためには。
しかし、内にこもる誘惑ほど魅力的ではない。
なぜだろう。


守りたいものがないからかなあ。
自分は子供がいないからか、そこは弱いかも知れない、と思う。
守りたいものがあればきっと、私はもっと外を見るよね。敵を見極めるよね。
死んだら死んだで、とか言ってられないし。
どうかな。
夫?彼は生きるだろう。私が死んだら彼は生きるし、彼が死ぬ世界では多分私は生き残る。
特にどっちかが残ってもその後の世界に意味はないけれども。


ハリウッド映画ではよく、地球で争っていた国々が宇宙からの侵略に対しては力を合わせて戦う。
(ただし独立を宣言するのはアメリカ大統領に限る。ただしイケメンに限るみたいなのと一緒。)
どの国にとってもさすがに地球自体無くなるのはアウトだからなあ。


そういうノリで、いやあんたんところのコロニーもやばいで、とお互いに危機を共有出来たり、
共通の希望―大きめの物語―を持てるといいのかもしれない。


しかしまあ、ハリウッドの脚本家のように、そうやって物語を作って色んなコロニーを連帯させていく人達もまた、
そういうのが好きでたまらない人達のコロニー(ギルド)を作って作戦を練ってくれていることでしょう。
いやあ彼ら、早くアトラクティブな物語をプレゼンして私の目を外に向けさせて!
なんか多分、気付いたら死んでそうこのままだと(いやそれはそれで幸せかもしれんけれども)!

トラッキング・ア・ゴーゴー

先日Twitterでお子さんの居場所確認の話になって、むかし夫のPHSをトラッキングしていた時のことを思い出した。
ウィルコムにあった位置検索。登録した端末がいまどこにあるかウェブ上の地図で見られるという良くあるサービス。



その頃私は夫の位置情報を知りたかったんだけど、アドエス(って端末がありましてね)とかって移動中にいちいちメール打つには若干面倒くさい仕様。連絡してと言ったところで向こうがしてくるのも面倒なわけで、勝手に把握出来た方が便利よねってわけで使うようになった。


まあ成人のトラッキングはあんまりやる必要ないけど、お子さんや、大人でも認知症の方とかは居場所を把握したい場合が多いと思う。
で、居場所の報告って、大抵は報告されたい(把握したい)側の要求で、報告する側はされたい側ほど居場所報告についての重要性を感じていないし、めんどくさい。
私も小さい頃はよく「なんで連絡してこないの!」って怒られた……気がする。
で、そういう相手にいくらちゃんと連絡しなさい、と言っても思い通りには連絡くれないもんですわね。なにせ重要度低いから。
(あ、でもまあ携帯持ってればその面倒さもずいぶん軽減されるけど。あとメール打てるといい。電話するとどうせ反対されるしとかあると電話もしたくなくなるんだよなあ。)
そういう場合はもう相手に労をかけさせず、こっちで勝手に居場所を確認、が何よりだと思うわけです。
相手も面倒じゃないし、知りたい方も知りたい時にすぐに確認できる。GPSラッキング素晴らしい。お薦めです。


気になることといえばプライバシー云々ですが、どうだろうなあ。
この話を夫に振ったら、うちはお互いのプライバシー感覚が緩いという話しになりました。
ラッキングはやりたきゃお互い勝手にやればいいとお互い思ってるし、相手が自分の鞄開けるとか別に何とも思わない。
別にお互い隠し事ないよね!?って夫婦なわけでもないです。単にその辺が身内に対して緩い神経なだけ。


あと、私も誰にでもオープンというわけではない。たとえば私は夫には居場所を知られてもいいけど義父母には知られたくない。
というのも、うちはいつも義母が夕飯を作ってくれるのだけど、彼らは普通の時間に食事をし、私と夫の帰宅はもっと遅い時間。
ただ、私の方は帰ろうと思えば夫より1,2時間早く帰れる。でもそれだと、彼ら、私、夫、と義母が3回夕飯をセッティングしてくれたりすることがあって、それは(本人は全然苦にならない人だと分かっていても)申し訳ないので大体私はいつも適当に外で時間をつぶして夫と帰宅時間を合せている。
説明がめんどくさいので二人ともだいたい同じ時間に仕事が終わってることになってるんだけど、私がトラッキングされた場合、遅い時間に職場にいないのがバレますわな。
まあバレてもいいんだけどさ。とにかくなんか申し訳ない。


という話を夫にしたら、夫が合点したように「ああ分かった、みっちゃんは俺に気を遣っていないんだ」と言っていた。
つまり私が夫に全てオープンにしているのは、私がどのように振る舞おうが夫は受け入れる(でしょ?)という気の使わなさの現れ、ということだと。
なるほど確かに。
何かを隠したいということは、何かを守りたいということでもあるな、時には。そして私は彼を何かから守りたいという発想はないな。ふむ。
……まああとは夫は何事も別に悪く取りはしないでしょという信頼でもあるんだけれども。
言ってないこと読み取る人だったり何事もねじ曲がって解釈する人だったりすれば全てオープンになんて無理で、その人の脳内に出来るだけフィルタをくぐり抜けて届くようにその都度伝え方を調整するしかないものね。
そうそう、気を遣ってないんじゃなくて信頼よ信頼!




何にせよGPS、付けるなら付けられてる本人が知っていることが重要だとは思います(浮気調査でもなければ)。
疑っているのではなくて、信頼しているのだよという感じでお互い合意出来ると便利なアイテム。
まああと、ママンに隠し事をしたいお年頃のちびちゃんズにはGPS付けられるのと携帯で自ら連絡するのどっちがいい?と脅してもいいか?
3回連絡してこなかったらアウトー!とか。
みんな付けてるよーとか(いう時代になるんじゃないかなあ)。