旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

『ウェブ進化論』パラレル(人間2.0というか普通の進化論というか)

インターネットで一つ、心に留めておかなければいけないのは、
インターネット(以下web)は、
私たちより低次であるということだ。と思う。


それは私たちを繋いでいるけれども、
決して束ねているわけではないし、覆っているわけでもない。


webは、人間がアウトプットしたもので構成されている。
人間がアップロードしなければ、ネットの世界には何も存在できない。


それは人間そのものになることもないし、
もちろん、世界と対等にも成り得ない。


どんなに正確な言語でさえ、
ただでさえ世界の全てを記述することは出来ないというのに、
(たまに人は、語りうるもの、見えるものだけが
世界を構成していると無自覚に信じているけれども、
人間の限定された視神経とこんなにも網目の大きい言語体系で、
世の中の全てを捉えていると思うなんて、
ポリゴンミスに気付かないゲームの主人公みたいでちょっと嫌だ。
さておき、、)



私たちがつたない表現能力と限定された視野でいくら何かをインプットしたって、
それで出来上がる世界はたかが知れている。


言葉も絵も音も、人間が生み出したものである限り、
生み出した人間そのものを超えることはない。
表現能力や表現方法や法則に規制を受けて、
元の人間が持っている全ての情報より、
アウトプットした時点でかなり劣化している。


アウトプットした本人が、それに気付くのは難しい。
表現化以前(言語化以前、映像化以前、音声化以前・・)の「何か」のうち
どのくらいの成分が失われたかは、
本人には認識できない。
人は表現することによって初めて自分がそれを持っていることを認識するから。



とにかく、壮大な何かを「表現」するときに、
私たちは、言語の認識体系だとか、描画の方法だとか、
必ず規制を受けるので、
それに則って表現するために、
若干時間を食う。


他人の「表現」を受け取る場合も、
まず目の前にあるものをそのまま受け、
次にその裏や行間を自分の経験で補い、
自分という人間に多少なりとも還元するために、
若干時間を食う。


だから、その集合体のwebは時間を食う。
情報を吐き出すために時間を食い、
情報を受け取ることに時間を食う。



webは、人と人が繋がっているわけではない。
人の表現と人の表現が繋がっているのだ。
webに上がる情報はこれからもどんどん増えていくけれども、
たとえどんなにアクセスが便利になっても、
人々の間の情報の共有量が爆発的に増えることはないと思う。
アクセスまでの時間が短縮されたとしても、
アウトプットも、インプットも、それなりに時間を費やさなければいけないものである限り、
人々の許容量に限度があるからだ。



情報が洪水を起こしている。
ネットの世界はそれを技術で解決するだろう。
人々のアウトプットが、
精製され、淘汰され、選別され、選択されるように。
それはそれで、いい。
人間の表現の精度を上げ、
人間が表現を受け取る精度を上げることは、
人間にとって、これからもずっと必要な努力だ。



それとは別に、多分、追求しなきゃいけないことがある。
もっと時間を食わずに、
大量の情報を伝え、共有しあう仕組みだ。


もっと言うと、
言語以外、の表現方法だ。
言語は時間がかかりすぎる。
伝えるにも、受け取るにも。
速読にも限界がある。
その前に、同じ言語を同じレベルまで習得していなければいけない、
概念を共有していなければいけないという、
大きな制約がある。
絵や音楽は、言語に比べれば恐ろしく多くの情報を持っているけれども、あいまいすぎる。
お互いの印象を共有するために、
私たちは結局言語を使う羽目になる。



またきっと妄想なんだろうけれども、
人間より「低次」での繋がりであるwebの世界で、
人間のアウトプットの精製を行っている間に、

人間自身のポテンシャル−アウトプットなんてしなくても人と”繋がれる”本来の能力−
を、徹底的に探求するべきであると思う。
言語なんかよりも何百倍の速度で、一瞬にして、
壮大な情報を理解することが、人間には可能なはずだと、
わりと真面目に、思っている。


今はまだイメージがつかめないけれども・・・。
それこそが人間の「高次」な繋がりであると、
いつか呼びたいのである。