旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

よくある文理トーク。

昨日、赤い門の向こうでお仕事をしている理系の友達と
記憶力の話をした。
私は記憶力がない。だいたいのことは覚えない。昔から苦労している。
昨日も彼女に聞きたいことがあったのに、なんとかがなんとかでなんとかなんだってば!
と何のことだかわからなくなってしまった。
しかも30に手が届いてくるとだんだん加齢による指示語症候群*1が発症するので
さらに意味不明となる。


”でもねでもね、未来への恐れはきっと過去の記憶から作られるんだよ!
ということは記憶力のない人間の方が毎日ご機嫌に生きられるんだよ!”
と言ったら、すごい仮説だねー、と笑われた。一理あるかもねー、と。


彼女いわく、記憶は意思の問題だという。
覚えようとすれば覚えるらしい。
”つまりchanmちゃんが、覚えなくていい、と判断してるのね”
なるほど。


ということは、私もやれば出来る子なのである。
やらないだけである。


テレビでサヴァン症候群の人たちの特集を
昔1,2回、見たことがあるけれど、
彼らは、逆に、忘れることが出来ないそうだ。
カレンダー、電話帳、地図、車のナンバープレート・・・。
すさまじい記憶力を持っている。その代わり(?)として、日常生活が不自由。
うろ覚えなのだけど、彼らは概念でものを括らない。
あのコップとこのコップを一まとめにして同じコップ、とはやらない。
すべて固有の物体。
そうやって、すべてを見たままに頭の中に収納しているのかな。
概念でざっくりまとめないから、個のディティールを一つ一つ覚えている。
コップのイデアが存在しない。そこにあるのは個々のコップ。なぜか同じ名前がつけられているけれど、まったく固有のもの。


それを見て、なるほど私は逆なんだ、と思った記憶がある。
なんでもざっくりまとめてしまうのだ。適当な概念に。そして仔細を捨ててしまう。
脳の省エネ?よく言えばイデア脳?(よく言いすぎ)
とにかく覚えた気になって終了してることが多い。
いざ思い出そうとすると、なんとブロックみたいなのが頭に浮かんでくる。
もやもやした輪郭。しかし固有名詞はとっくにその中に溶けてしまっているので、
還元することが出来ない。
その空いたメモリで他の何かをしてるわけでもなさそうだけどね、、orz..。


まあいいや、とにかく、意志の問題、つまり、
真剣に取り組めば(覚えたら100万円とか)
私も人並みに記憶は出来るのかもしれない、
という話になった。


で、満足したので、じゃあそれは試さない。と私が言うと、
彼女が”え?なんで?”と言う。


”当然じゃん、もし真剣に試してそれでも覚えられなかったら悲しいじゃん。
でも試さなかったら”やればできる子”ってずっと思ってられるじゃん。”


と言ったら怪訝そうであった。
彼女が言うには、やろうがやるまいが
そこに(私の記憶能力という)事実は存在してるんだから現実は変わらないじゃん、
とのこと。


うう。
理系のいう真実は一つである。
文系のいう真実は世の中なんて表象、それってば十人十色という意味である。
(文系の)私にとって、認識と存在なんて同義である。
つまり認識さえしなければ事実なんて存在しないのであーる。


と屁理屈をこねて認識しないことの幸せを訴えてみたんだけれど、
そもそもそういうのは彼女的に幸せとは呼ばないそうだ。なるほど。


文系理系って、ざっくり脳かディティール脳かの違いっていう分け方もあるよな。
いやどうでもいいんだけどさ。


そんな彼女は小説好きで、逆に私は小説が読めない。
彼女はイメージや概念の世界で癒され、
私は普段ですらあいまいなのによけいあいまいな世界をみていらいらする。
お互いないものねだりかしらん。

*1:あれとあれをあれしといて・・ってやつ。昔はよく年上を”主語を言え!”とバカにしてたんだけど(笑)、だんだん自分もその世界に入っていくのねぇ。ていうか英語圏の人はそういうのないんかしら?とりあえず主語は忘れなさそうよね。。。あ、造語ですからね!