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学習パッケージ

実は初めて能動的に"学習"をしたのって、
忘れもしない大学1年生の夏、自動車教習所だった。


教習、1回1回お金がかかるじゃないですか。
落とすとそれだけ。
そのときに、あれ、もしかしてこれはやる気になるのとならないのではずいぶん習得までに差があるのでは!?
と焦って突然能動的に学習した。


能動的っていうのは、なんだろう。
私のなかで学習っていうのは、脳内にその分野の体系というかマッピングというかをしていく作業のことなんだけど、
高校までは思いっきり受動的だったので、たとえば授業とかで、そういう作業はしなかった。
自分で体系立てなくても先生が順番どおり教えてくれるし。


そういう受動的な学習に慣れきってた私は、
教習所に結構とまどった。
一応カリキュラムはあるけど、その時々に教官が違い、教え方が違う。
教官は前回の教習内容と完璧に整合性を取った教習をするわけじゃない。
しかも私の理解を差し置いてどんどん先に進む。
(しかも方言きつくて言ってることが結構謎。)
3,4回やったとき、私の頭に「理解しかけ」の断片が大量に残留した。


そのときやっと気づいた。
おお、これらの知識を体系立てて習得するのは私自身がやらないといけないのね。


久々に頭を動かした瞬間だった。。



そのときやっと気づいたのは、
これを学習せよ、というパッケージ化された学習を
習得するだけが学習じゃないんだな、ということ。
学習自体の枠組みを自分で決めるのがそもそもの学習だったということ。


教習所の一連のカリキュラムは確かにパッケージ化されているんだけれど、
それを自分の身体に覚えこませる過程は、
私の特性を良く知っている私自身が自分で組み立てたように思う。
本当に自分にしては珍しく、
自分の身体を学習に投入した感覚があった。
メタ認知って言葉は知らなかったけど、まさにあれがそうだったなと思う。



小学生から大学卒業まで計16年間、私は授業という"学習パッケージ"を受け取り続けた。
計画はいつだって、先生の頭の中にあった。
私の頭の中ではなく。


久々に頭を使った大学1年生のその夏以降、
本当に当たり前のことをやっと認識するようになった。
授業が、私の学習を規定するんじゃなくて、
私が、私の規定する学習の素材として授業を選ぶのね。


ふむ。


そういえばそうだ。どんな授業も、どんな学校も、それだけで私が学習したいこと全てを満たしたことなんてあっただろうか。
満遍なく適当に流してきてしまったけれど、それで何かを学んだか?


そんなことを思った。
で、一つも学んでないと思った。


自分の学びたいものは。


もちろん、たくさんのパッケージを受け取った。
でもそれはどっちかというと素材だ。断片だ。道具だ。
で、それを統合する”私の中の学習の枠組み”はどこ?


実は未だに、それが分からない。自分のパッケージが見えない。
私は私の脳内に何の体系を作ろうとしているのか、作りたいのか。
なかなかそのメタにたどり着かない。


”これをやれば〜をマスターできます!”
”これを終了すれば〜になれます!”


巷にはこういう文句があふれているけれど、
そんなのは学習の断片であり道具であり、単なる素材の一つだ。
自分を投げ出すほどの価値は無い。


でもつい、惹かれてしまったりする。
他人が作ってくれた学習パッケージは楽だ。
それで”何かになれる”のならまあいいかと思ったり。


でも確実にそれは違う。
どんなにぴったりに見えても、他人の学習パッケージは、
自分の本当の満足から、少しずれているはずだ。
それが嫌だ。
それが気になる。



おそらく私達はみんなほとんど同じだ。
知ってることも同じ。出来ることも同じ。
みんな出来合いの学習パッケージを
大量摂取して育った。


それが基礎だとしたら、
そこに肉付けをしたくなるのが私達だ。
本当の自分の学習パッケージの形になるように。
経験であったり。責任であったり。そういうことも含めて。


そういう最後の肉付けは、
いくらたくさん出来合いのパッケージを摂取してもだめだ。
どんなに上手く組み合わせても隙間が出来る。


だからその肉付けは、自分でパッケージを組まなきゃいけない。
素材は何にする?
どう努力する?
どう持っていく?


その辺が個性っていうんだろうな、と最近思う。
ぎりぎりまで出来合いで省コストして、
最後を渾身の力で埋める。その辺。



まあ、わかんないんだけどね、そのパッケージが・・^^;


まだまだ出来合いのもので埋める隙がたくさんある私でございます。
スカスカと音がする。