旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

幸せの表明方法

「隣のうちの子供が事故で死んでしまった。うちの子は今日は生きてる、ありがとう!」
というような感謝の仕方を、
たとえ心で思っても人前で口に出すような人は相当アレだと思うけど、
そういう、「持たざる」人に比べて自分の「持てる」状態を感謝する、というやり方は
脳内では結構よくやりがち。


ご飯が食べられるだけいいか。家があるだけいいか。足があるだけいいかetc.
同じ境遇の人同士の間(たとえばご飯が食べられるだけ〜はたいていの日本人間)では、はさほど問題にならないけれど、
その、比較された「持たざる」人がその感謝の言を聞いたとき、
こんなに悲しく、辛いことはない。


ただ、たいていの人は、ただただ、別に何と比べるでもなく、目の前の事象に感謝してる。
ご飯がうまいありがとう。職があってありがたい、健康で幸せ、
子供ができて嬉しい、上司が人格者でラッキーetc.
明らかに恵まれている場合もあるし、客観的に見てキツイ人生の中でただ一筋の希望を全身で受けている場合もある。
棚からぼたもちの場合もあるし、長く苦しい努力の末につかんだ場合もある。
ほんというと、その人の感謝というのは、その人の歴史や境遇とセットでないと意味合いは測れない。


でも、たとえば誰かの感謝がウェブに載った時、
その感謝のひとこまだけがぽっと切り取られて参照された場合、
人はその文脈までは情報として獲得しない。
みんな文脈を測れないから、自分の脳で補正して受け取る。


ある人は素直に祝福し、
ある人は自分がそれを「持たざる」現実を嘆き、
ある人は自分が「持たざる」者として比較されたと怒り、
ある人はその人の恵まれた(ように見える)境遇に嫉妬する。
最近も何件か、ウェブでそんな事象を見た。



「おめでたいことは祝えばいいじゃない。卑屈になってもいいことないよ?」



心が平静な状態の人はそう言う。
私も基本的にはそう思う。
何かで心が荒んでいたり、執着していたり、悲しみでいっぱいだったりするときは、
逆の情報にあんまり触れないほうが心が落ち着くだろうから、
そもそも見なければいいよそんなもの、と思うし、
見たとしてもそれはそれ、これはこれなんだから、逆恨みしてないで大人になれよ、とも思うし。


だけど、そんなにフィルタリングが上手くいかないんだよねまだ。ウェブの情報って。
あと、人の感情もそんなに制御できない。


何かに感謝しただけでブログが炎上、とか
ほんとどうでもいいけど、そういうくだらないことも起こりうる。
でも燃料投下してる人達は切実っていうね。



こういうの、難しいなあと思う。
ほんとに表現方法に気をつけなければ要らぬ反感を買う。感謝は。
リアルで明らかに「持てる」人は日々、謙遜の言葉のバリエーションを増やしたり、
何か欠けてるところを逆にアピールしたりと、
人に平静に接してもらえるように本当に苦心してると思うし。


それでも、ウェブでもリアルでも、感謝の表明は妨げられちゃいけないと思う。
たぶんひとつだけ、コツがあるんだろうね。


それは、「おかげさまで」という気持ちを持つこと。
そしてそれを表明すること。
なんのことはない、昔からの知恵。


別にその人に直接何かしてあげたって人はそんなにいないと思うし、
それがウェブ上ともなればもうほとんど接点なんてない。
でも、「おかげさまで」。
自分だけで大きくなったのでもないし、自分だけで生活できてるわけでもない。
自分が特別徳を積んだわけでも、自分が誰かを傷つけなかったわけでもない。
でもいいことがあったんだ今日。
こんな自分の存在を受け入れてくれる、世間のおかげで。あなたのおかげで。


よくわかんないけど、そういう気持ちがあると
ずいぶん受け取るほうは違うんじゃないかと思う。
因を少なめに、縁を多めに感謝するくらいがちょうどいいというか、
実際の力学がそうなっているというか。



・・私の感謝をまず始めに目に、耳にするあなたのおかげで、
私は今日もつらつら駄文をつづれております。これはほんとにそう。
ありがとね。