旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

ウェブに主観を取り戻せ!

「仏様に感謝」「神に感謝」信仰を持つ人の感謝の頻度というのは多く、美しいものだと思う。
特にそれが苦境であり、逆境であり、もしくは凪であるときは。
そういった中にも有り難さや意味を見出す豊かな感性を与えられることが、
信仰を持つことのギフトかなあとも思う。
自分が希うことが思い描く通りに叶えられることだけを幸せと呼ぶような地獄の世界からは
少なくとも開放される。



ただ、信仰を持つ人にはいろんな段階があって、失礼だけれど、
目の前の人が明確にその人になにかしてあげた時も、「○○様の御蔭」になっちゃってる人がいる。
いや、まあ思いっきりすっ飛ばすとその人をあなたの目の前に遣わしてくれたのもまあその○○様なのかもしれないけれど、
しかし、あなたに「良きことが起こった」そのために、明確に身を削った人はあなたの目の前にいるのだ。
あなたに「悪いことが起こらなかった」それを、人知れず全力で守った人達がいるのだ。
そういう人たちは、見返りを求めたわけではないけれどでも、あなたが○○様にだけ感謝している間に、少なからず落胆している。
特に、共通の○○様を持ちにくいこの国では。



事象が相対化されすぎちゃうんだよね。
起こることはすべてその時ベストなことなのだ。人間万事塞翁が馬だし、って
悲しみを相対化しているうちに、喜びも相対化されていってしまう。



悲しみの相対化はいいと思う。
他人も辛いんだ、自分だけじゃないんだ、とか、これは試練でいつかまた乗り越えられるとか思うこと。
目の前に明確に諸悪の根源がいる場合でも、もっと大きな枠組みの中で自分の悲しみを認識しなおすこと。
これは癒しに絶対必要。
たとえそれが気休めでも、でも、休まる。
不条理な、意味の無い悲しみも多い中で、そこから少しでも自分を解放する働き。



でも喜びの相対化はどうだろう。
これはラッキーだったんだ、とか、○○様が与えてくれた思し召しの一つ、とか思うこと。
目の前に明確に善意の提供者がいる場合でも、もっと大きな力が自分に働いているのだと認識しなおすこと。
うーん。
まあこれはこれでテンション上がるな。
大きな波キタコレって感じだなあ。



ああわかった。



自分が納得するために、自分だけ不幸にならないように、逆に天狗にもならないように、
いろいろ相対化するのはいいと思う。私もよくやる。


でも、その相対化を他人に適用することは、時に、他人を虚しくさせるんだ。
「みんな苦しいんだよ」と悩んでいる人に言うこと、
「○○様のおかげだね!」とがんばった人に言うこと。



人の悲しみも喜びもそれぞれに、ユニークな値を持っているのに、
それを否定することが虚しさを生むんだ。





・・で、すみません今何書きたかったか思い出した。そうそう本題、「ウェブ教」の話。
ウェブにはフラットの神様というのがいる。別名、相対化の神様。
神様はユビキタス(遍在)!ってあれわりとほんとに神っぽいな。
今のところGoogle神が強い。


ウェブのおかげでいろんな価値観に簡単に出会えるようになった。
手っ取り早く言うと、「いろんな人がいる」。
簡単に怒ったり嘆いたりすると、「それ観測範囲狭いんじゃない?」と言われる。
「そういう視点もあるって受け入れなよ。お前の価値観は one of them だよ」と。
で、実際その通りではある。
意味が相対化され、価値が相対化される。
どんな罵倒もコミュニケーション方法としては「アリ」になり、
それにいちいち腹を立てるなんて狭量では、ウェブではやっていけないでしょ、ブログやめたら?となる。
自我の損傷を避けるために、「スルー力」という言葉も生まれた。


ただ、相対化に過度に適応すると何もいえなくなる、という弊害がある。
もっと言うと、「それって観測範囲狭すぎない?」という話しかできなくなる。
メタ競争、相対化競争になってしまう。


私はウェブ以前からそういう、相対化してしまうような悪い癖があったから、
実はここ数年、逆に、敢えて偏る、怒る、選択をする、ということにフォーカスを置くようにした。
(ここにもそういうの書いてきたけど)
何も選択しない、経験しないうちから「中庸」とか言っちゃうのもうさんくさいし、
敢えて選択することによって得られる経験の数とフィードバックのほうが大切に思えてきたからだ。
あと、なんでも相対化だ一般化だアナロジーだとかやってると、対称を粘り強く思考する根気がなくなる。
ただ、ウェブが相対化の世界だから、いちいち突っ込まれるのを恐れて、
「これは主観ですからね」と、割と書き添えて主張するスタイルを取っていた。
そうしないと、相対化の強制の波に飲まれてしまいそうになるから。



でも最近、相対化ウェブ自体にちょっと飽きてきた。
だってほんとに何も言ってない世界になるんだもん。
サクっと断言できるのはスルー力のある強い人だけ。
そうじゃなかったらいちいち批判に先回りしてから、「敢えて言ってるんですからね」感を演出しないといけない。
相対化ももういいかなぁ。素朴な主張は(観測範囲が狭いと)批判されるけど、
これだけウェブに漬かって相対化もいろいろ見て経験積んだし、
一周回ってガチ(実存を賭けた主観)のターンでもいいかなあそろそろ。
そんなことを思っていた。
まあ、文句あったら言おう、それだけのことだけど。
相対化神が司るウェブには裁定者はいないし、誰も正義や「みんな」を代弁は出来ない。
だからこそ「自己責任」なんだけど、どうせ自己責任なら、積極的にそれを取って行きたい。
それでいいんじゃないかと。



そんな時極東ブログを読んで、もう一つの視点を得た。

 でも、違うかな。自分が強くなるのはなんか違うんじゃないかという感じがしてきた。自分が強くなるということで結果的に自分よりナイーブなブロガーの言説を自分は抑圧している側になってきているんじゃないか、という気もしてきたし、そもそも私は強い人間ではない。なんでクソッタレに言われほうだいなんだろやだなというイヤ感を率直に言ってもいいのではないか。

「クソッタレ」というのは、その前のエントリで紹介されていた本に出てくるターム。

 ところでクソッタレ(asshole)とはなにか。ショートバージョンではこう。


基準1/ その人物がつねに他人を貶め、やるきを喪失させる人間かどうか?
基準2/ その人物がつねに自分より力の弱い(もしくは社会的地位の低い)相手を標的にしているかどうか?


 簡単にさらにまとめると、口答えできないポジションの人なのに、合うといつもやな感じにさせられるというヤツがクソッタレということ。

本自体は読んでいないけれど、「イヤな人をイヤと思うほうが悪い」という自責がある人は
結構たくさんいて、もっと行くと「誰もが本当は魂は」「誰にでも仏性は」ということになるんだけど、
それは真実だとしても、全員に対してそうやって接していく体力は個々にはないし、それはその人の宿題ではないから、
自分が善人であろうとする規範をまず捨てて、とにかく「クソッタレ」を「クソッタレ」と認識しよう、
というところから始まる本のように見える。賛成である。

青少年期に優等生だった人には行動パターンに染みついていてなかなか抜けないし、善人オブセッションや母親オブセッションの人なんかもなかなか抜けきれないものだ。露悪的に書くけど、自分を愛してくれた人、助けてくれたという人が実はただのクソッタレであることを心理的に認めたくないという無意識があるとけっこう最悪になる。つまり、そういうことなんだよ。

この極東ブログを運営してるfinalventさんは、そのルールを
ウェブ上に適用するとしたらどうなるかを考察されていた。



ああそうだなあと思った。
私のレベルだと他人をけん制している、ということはないとは思うけれど、
私が「スルー力」に加担している間、私のよく見るウェブでは陣営が2つに分かれていた。
つまり、「言ったもん勝ち」の人たちと、「何も言えない(言わない)」人たちに。
私は今でも「スルー力」は大事だと思うし、元が大雑把なので結構そういう耐性もある。
スルー力」は、ウェブ教的に言い換えると、許容量であり、もっと嫌な言葉で言うと、赦し力だ。
どれだけ許容し、どれだけ赦すかで人の「器」を測るのだ。ウェブ教の教義では。
そうすると、どんなバカでもキチガイでも*1許容しないほうがダメ、ということになり、
野放しの人はよりやりたい放題に、許容する人はより多くの負荷を受ける、
そういう世界になるのだ。



だから私はこのアルファブロガーの疑問に共感した。
ただ、そこからどうするのだろう?と思った。
ウェブはまだ相対化が跋扈する世界だ。
アルファが何かを「断定」すれば、それを「影響力」と捉える人がいる。
「クソッタレの定義は?」とか、「そんな恣意的でいいのか」とか、「ケツの穴が小さい」とか「スルー力不足」とか「上から目線」とか。
私なら主観を表明できる。いくらでも。もちろん「主観ですよ」と、わざわざ注をつけて。
でもアルファはそういう逃げた文体は使わないだろう。
どうすんのかな。

なので次のこれは嬉しかった。

 ブログの運営のことでこれだけ悩んだのは久しぶり。いろいろ悩んだけどね。もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。ということにしました。
 承認制というのは、コメントを書き込まれてもすぐには反映されないということです。私が判断して、これはないんじゃないかなというコメントはブログに反映しません。せっかく書いていただいたコメントも、私の承認がないかぎり、コメント欄に表示されないことになります。「死ね」と書かれたコメントは表示の承認をしません。みなさんからいただいたコメントを表示するかしないかは私が責任をもって決めます。
 そして、もう一つ。ブログを持っているみなさんも、これから持とうとしているみなさんも、コメント欄を承認制にしたほうがいいですよ、とお勧めします。

アルファガチルールktkr。

主旨はこう。

 実は私もその程度の罵声にも耐えられますし、5年以上耐えてきましたた。まだ強くなれそうと思ったとき、違うよと思ったのですよ。
 数千以上のPVを持ち、それなりに著名なブロガーは、他のまだ小さいブロガーなら威嚇を感じるようなクソッタレコメントにも許容を持ちます。数千以上のPVがあればクソッタレは自然発生しますし、それに許容性がなければやっていけません。
 しかし、そうした大きなブロガーが、他のブロガーだったら威嚇を感じるようなコメント、単純には、「死ね」といったようなクソッタレコメントを放置しないでくださいということもあるのです。特に、大きなPVを持つブロガーはそのクソッタレコメントを結果的にまき散らすことも許容しているのです。それをやめましょう。
 ブロガーとして、クソッタレ撲滅ルールの意志を示そうじゃないかということなのです。
 ですから。

さすがアルファだからということはないかもしれないけれど、
誰もが納得できる公の理由を持った主張だと思う(わかんない、という人もいるみたいではあるけど)。


ウェブでは、その主張に「妥当性があるかどうか」がもっぱらの話題になっている気がする。
さすがグーグル神の支配するダイバーシティウェブ。


でも私は正直、その主張の「妥当性」にはあんまり関心がない。
この相対化の世界で、この1アルファに影響力があったとすれば、
コメント承認制を広めることそれ自体ではなく(それももちろんだけど)、
その主張を一実存として表明する自由を解き放ったことだと思う。



「あなたのブログのイヤな奴」は、あなたが決めていいんだと。
もちろんそこには責任や人格が問われる。公への態度を問われる。
でもそれが本来の世界だ。
相対化に逃げて、多様な価値観を受け止めて、何でもアリで、へらへら笑ってる競争をする世界じゃない。
自分で選択をして、自分で責任を取る世界だ。
場合によっては、そのほうがキツいかもしれない。
でも、やっぱ思う。



主観を取り戻せ!



ウェブに張り付いていて思うけど、
相対化は楽なんです。2、3個例を拾ってきて、
「こういう人もいるよ」「こういう例もある」って言えばおk。
あと何にも調べずに自分の主張するのも楽。突っ込み受けてもスルー。
あと、正論を言うのも楽だよね。
でも本当に自分で主張をするなら、きちんとした考えと勉強が要るんだよね。
当事者としての責任を引き受けることだから。


たとえば、バカにするのだって「悪」じゃない。
私も、私を本気でバカにしてくれた人がいたから成長できたけど、
相対化で薄っぺらくバカにしている人は別として、
ガチでバカにしている人というのは、それが自分に帰って来るリスクをおかしてバカにしてる。


私は昔から朋ちゃんのこの歌(Hate tell a lie)のフレーズが好き。

「下らないバカらしい そういう態度をもしとったら 負けたくはない」

遡ると2000年くらいに書いてたっぽい。

私は人をバカにするのって嫌いで、
それは別に道徳的な理由からでは全然なく、
ただ、「じゃあ、お前は出来んのかよ」とか言われたり思われたりするのが
面倒だから。
人をバカにさえしなければ、自分が逆にそういう窮地に立たされる
可能性がないわけで。そんだけ。
あと、バカにしたいような出来事も、
単に自分の理解力というか知能程度が低くて
相手が皮肉を言っていることが分からないだけだったり
深い意味を汲めないだけだったりで
バカにすることによってかえって自分の無知という
恥を晒すんじゃないかとか。
という単なる保身の感情から私は
どんな下らんと思うこともなんか裏を読もうとして
なんだかんだでバカにはしない。


でもこの詩、かっこいいね。
こういう言葉が正論より美しいのは、
本音は、正論と違って、
言った本人がその発言の全責任を取るっていう
覚悟があるからだ。
ほら、いつでも逃げたい私なんかは、自分の言葉より、正論を使って話す。


どうせバカにするなら
本気でバカにしてみよう
自分の言葉に負けないぞって誓って。
ちょっと野望っす。

今でもそうは思っている。なかなかバカにできる機会もないんだけどさ。



あと、真理に誠実な人は、私みたいに「〜〜じゃないかなあ?」なんて逃げた文体使わないんだよね。
実存をかけて、断言し、疑問が出れば答え、批判も当然全面で受け、間違いがあれば正す。
それが断言の価値でもあって、命令でも強制でもない。
日本語はいろんな断定調があるけど、
それを一括で「上から目線」呼ばわりする人だけは、「観測範囲が狭いんじゃない?」かも。




ってなんか長くなったな。
まあ、以上で2008年度初夏現在のウェブ、今のところ思ってることまとめ。
オープンなウェブが本当にオープンなら、
必要なのは他人に相対化を強いることじゃなくて、
お互いの主観をこそ認めることかもね。そしてそれを認めないなら、とことん話し合える場と。

*1:主観ですよもちろん。←こういう注がいるのがウェブ