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自分探しと刺し違える

Twitterでリンクが流れてきて踏んで、ちょっと違和感持った。

なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。
理由は簡単である。
それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。
「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。
「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。

自分探ししてる人って、学ばないかねぇ?
積極的に知識を吸収し、体験を増やしていくもんだと思っていた。そうでもないか?


私は最近の、自分探しブームが一段落したのか大人になったのかわからないけど、
自分探しを否定してまず体験に身を投げよっていう感じの言説があんまり好きではない。
何事も中途半端だから良くないのであって、とことん探せば見つかると思う。現時点の想像力で思う形ではないと思うけれど。
とことん探すっていうのは、人は生きている限り自分の所業のフィードバックを受け続けていくわけだから、
それを分析して解釈して咀嚼して仮説を立てて実験してまた検証してを無限に繰り返すこと。
死ぬまで。
寝てようが働いてようが嫌な仕事で雇われていようが自己実現していようが病気しようが健康だろうが子育てしようが介護しようが
ずっとついてまわるでしょ自分探し。
しないのかなみんな。
思考停止して、なかった事にして、そんなもんだと思って過ごすのかな。


自分探しを哂うっていうと、
私の貧困な想像力だと、全共闘だなんだが終わったらサクっと就職していったらしい団塊の世代の人たちというイメージなんだけど、
まあ、バブルで、自分探しの必要なく、自己分析もエントリーシートも必要なく社会人デビューした人たちというイメージでもいいや、なんだけど
(すみませんその世代の方ただの偏見です)
そうやって自分探しに長い間蓋をして、そのまま死ねればいいけど、
表層を謳歌したまま60になって突然アイデンティティクライシスとか多分すごい辛いぞ。


確かに、止まってたら自分探しのしようがないので学ぶなり試すなりいろいろするしかないし、
止まってぐるぐるしてるだけの中途半端な自分探しは(これもある程度は必要だと私なんかは思ってしまうけど)時間の無駄だと思うので、
そういう意味で内田先生がおっしゃるならそれはそうかもしれない。


でも本気で探してたら人生のどの瞬間であろうが学びになるわけだし、
人はそうやって長い人生をかけて自分探しと刺し違えてるんだと思う。
明日その生が終わってしまうかもしれないけれど、それでも。


*1

*1:私を知りたいんじゃなくて世界を知りたい、という場合も、
だいたい「私」を通してしか世界を認識しようがないんだから、
絶対知(があるとして)に至るには自分が止揚され続けるしかない。
止揚される自分とその後の自分の自己同一性を必死で確認しながら観察し続けるしかない。
と20歳頃に『精神現象学』を読んで青臭く思ったことを思い出した。解釈があれだろうけれども。。また読まないとなあ。。