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決めない人たち(震災メモ)

最近、何も考えていない。
ここ2年くらい(実用書以外に)ほとんど本読んでないんですけど、
そうすると考える事もなくなるなあということがよくわかりました。
それでも生きていけるので悪くはないけどつまらないね。気をつけましょう。


考えることはないんだけどやることは多いのでそれなりに日々は過ぎていく。
震災について自分が何を考えて、、というか思っていたか、
10年後にブログ見ても何もわからないなあと思ってメモ(と偏ったクリップ)。
長いので読んでくれる人は斜め読みでお願いします。


3月11日の震災はさすがに私にも衝撃だった。
実は震災後1週間くらいは事態がよく分かってなくて、
日本社会の鬱陶しい習慣(定時出社フレックス退社とか)が
交通の麻痺でどんどん崩れていく様子にほっとしたり、
日本社会の思考停止の連鎖(上に相談しないと決断出来ないとか)で
仕事の、特に役所関係の人たちの判断の遅さに苛立ったりと、
非日常感に浮き足立っていた。


少し経って、現実に戻って一気に復興に注力するのかと思いきや
原発が爆発しておりそれどころではなく、
周辺住民の方には、被災者の救助が見捨てられて退避命令が出ていたり、
未曽有の大惨事とはこのことと思った。

妻と子供が行方不明の友人は津波の翌日、避難指示にもかかわらず、自宅に向かった。辺りはがれきの山。あちこちから「助けてー」という声が上がっていたが、一人ではどうすることもできず、そのまま帰るしかなかったという。
原発事故がなかったら、もっと早く捜索してくれていたら、たくさんの人が助かっていたはず。それだけが本当に悔しい」。由佳さんが、頑固だった父に似て口下手な和司さんの思いを代弁した。放射線被曝(ひばく)への恐怖や風評被害…。「本当に悲しいことばかり。宮城や岩手は復興に向かって動いているようにも見える。でも、福島はどう頑張ればいいのか」

こういうニュースが辛かった。
原発は(他の発電方法より)死人が少ない」という言い方をする人がいたけれど、
この避難命令によって救えなかった命は膨大だと思う。



私は帰宅難民になったり、家に物が散乱したくらいで被害がないので、
一番の被害といえば仕事関係で役所の人たちの判断しなさに振り回されたことだったんだけれど、
思えば、その経験がそれからの判断の基準になった。


「役所の人たちは、決められない」


ということだ。個人のせいではなくて、組織の体として。

西郷は、会計の世界で話題になっている「ルールベース」と「プリンシパルベース」を思い浮かべた。言うまでもなく、詳細に定められたルールに従ってさえいれば免責されるのが「ルールベース」だ。

 原則に照らし合わせてその是非を判断するのが「プリンシパルベース」だ。この報告は、まさしくルールベースだった。しかも、第三者の監査も行われていない。もし「プリンシパルベース」を貫いていたとしたら、「人命に関わるリスク」について、さまざまな可能性が議論され、報告されたはずだ。だが、その報告書には難解で無機質な数字と「基準以下」との結論が書かれているだけで、最悪の事態の可能性について何も書かれていない。

これはウェブサイト上の連載小説だけれど、ウェブ連載ならではというか、時事に沿いながら話が展開されている。
この西郷さんという人が、福島第1原子力発電所3号機の耐震安全性に関する報告書というのを読んでの感想。


ルールベースとプリンシパルベース、なるほどそうい言い方があるのかと思った。
要するに、規則に沿うのか原則に沿うのかということだ。
日本の役所の人たちは明らかに前者。
規則に沿って判断して人が死んでもそれは免責される。
しかし、規則や上司の許可なしに判断してもし事が起こったら(そして、たとえそれで人が救えた場合でも)糾弾される。
役所の人はいつも数人で会議にきて、ほとんどその場での決断をせずに帰る。個人で判断しないということが徹底されている。
規則を破ってでも人命に配慮することで彼らが得られるメリットはない。
自治体に頼むと都や県からの通達がないからという。
都や県に訴えると国からの指示がないからという。
徹底して、上からでないと全く動かない。
しかも、上からの指示がわりと、「各自治体で判断しろ、責任は取らない」って感じですごい。

通知によると、1キロ当たり10万ベクレル超の汚泥は、発生した都県内で放射線を遮蔽できる施設内に保管。10万ベクレル以下8000ベクレル超の場合、住宅地などから一定の距離を置いた「管理型処分場」に仮置きできるとした。最終的な処分方法は今後検討する。8000ベクレル以下については、管理型処分場への埋め立てを認めるが防水などの対策を求め、跡地を住宅地とすることは制限する。汚泥の再利用は、原子炉等規制法で定められたコンクリート用の基準「100ベクレル以下」であれば可能。一方、園芸用の土などへの再利用は自粛する。

これとか、数値の基準決めただけで、じゃあどこに置くのよとかその費用はとか全く言っておらず「よきにはからえ」スペックが高い。

けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。
 だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。

上は、内田樹先生のご意見。
結局、一番の上の人である「国」も、決められない人たちの集まりなのかも知れない。


まあとにかく、いい悪いというのではなく、役所とはそういう組織なので、
そこに無駄に憤ってもしょうがないなと思った。


もちろん民主主義の手法としてデモ等があるけれども、
先進国ではまっとうな民主的行為として認められているらしいデモ、
日本だとどうも引いてしまう。
全共闘の人たちのイメージがある気がする。
すでに私は知らない世代だけど。
その下にしらけ世代というのがあったと聞く。
その名残の雰囲気というか。
本当はここで引いたら市民として負けなんだろうけどね。
そんなことより議員さんそそのかしたほうが早いみたいな何か。


ということで、一市民に出来るのはできるだけの自己防衛と
直接の助け合いだなと思った。
助け合いは、日本赤十字社等への大きな募金は届くまでに大変時間がかかるので
こういうプロジェクトに送るとかとか⇒「ふんばろう東日本支援プロジェクト
※他にも、民間でソーシャルウェブネットワークの力を使って奮闘なさっている方々が沢山いる


自己防衛は、まず自分と家族の地震対策と、
あと今は、放射性物質内部被曝
内部被曝については、私はどうやら周りから見ると若干神経質らしいんだけれど、
まあ理由はいろいろある。


一つには、妊婦や幼児のお母さんの友達が多く、彼女とちびちゃんずの健康を願っていること。
一つには、これくらいなら大丈夫とか、これくらいならやばいとかいちいち判断するのがめんどくさいので、疑わしきものは食わずで行きたいこと。
癌にかかるリスクはよくタバコと比較されるけど、私はタバコは人生で一本も吸ったことがないのでそこで比較されてもよく分からない。
ジャンクフードは親世代の一生分は食べた気がするのでどのみち大した寿命ではないかもしれないけれど、
ジャンクフードと外食をこれからも心置きなく食べるために、
自炊には気を使いたいと思う。


そもそも低線量被曝にはデータがないそうなので、
我々が今後提出することになろうかとは思う。

学者が知っている知識のレベルを纏めると以下のようになります。
・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に悪影響を与えることを示す臨床データは存在しない。
・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に良い影響を与えることを示す臨床データであれば存在する
。・LNT 仮説はあくまでも仮説である。低線量体外被曝が健康に与える影響については、その影響が良いものか悪いものかですら、よく判っていない。

で、一応、国の暫定基準値が決まって、お達しが出てると。

食品の放射性物質の暫定基準値はどうやって決まったか - 勝川俊雄 公式サイト


とかを拝見するとほんとお疲れ様ですという感じなんだけど、
一応じゃあ、それに従って出荷制限がされるのねと思う。


で、疑問に思うことは、日本にそんなに測定器あったっけ?ということ。
放射性物質はいろいろなマップを見る限り福島から関東平野までは
確実にいろいろ飛んできているけれど、そこは測れないなあと。

「ほとんどの農作物が検査を受けずに市場に出ている。まるで“底の抜けたザル”です」

 原因は圧倒的な検査機器と専門スタッフの不足だ。

 厚労省が検査への使用を薦めている「ゲルマニウム半導体核種分析装置」は冷戦時代、核の脅威に備え、当時の科学技術庁が各都道府県に購入を指導したが、とても現在の需要に追いつく台数ではないという。

 1台約1500万円と高価にもかかわらず、震災後は平時の5倍以上の購入申し込みがあり、「納期まで少なくとも4カ月待ち」(販売代理店)という状況になっているのだ。

 魚介類の放射能検査の中心的存在である「水産総合研究センター」(横浜市)には、事故後、自治体や漁協から検査依頼が殺到している。

 担当者によれば、10キロ程度の魚(カツオなら3匹、イワシなら50〜100匹程度)の頭と内臓、骨を除去してミンチ状にし、筒状のタッパーにすき間なく詰めて、測定する。

(page: 2)

 同センターは分析装置を6台保有しており、約10人の専門スタッフがフル稼働で検査にあたっているが、前処理を含め、一つの検査に3〜4時間かかるため、1日に4検査が限度だという。しかも、

「魚は足が速いため、検査結果が出る前に、同じ場所でとれた魚は消費市場に流れている」(漁協関係者)

あー、大体こんなもんだろうなあと思う。
基準値があったところで、測ってないものをどうやって足し算すれば。


それでも、いろいろなところでできるだけ測ろうと努力してるんだろうなと思う。
思いたいんだけど、役所の人の事が思い浮かぶと、
彼ら、何が嫌いって、極端な人たちからの電話の嵐で仕事にならない状態が嫌い。

県経済産業部は「消費者への連絡など最低限のことはやっている。HPで出すとかえって不安を広げかねない」と説明している。

役所の人たちの「不安やパニックを与えかねない」というのは
不安を広げかねない=また電話が鳴りまくりかねない
ということなので、まあこれからもさっさと数値が発表されたりすることはないだろうなあという感じ。
(私も県庁に半年くらいいた事があるだけだけど、基本こんな感じじゃないだろうかどこも)


それどころか、測定を渋っていたりもする。

放射能を不安視する県内の生産農家などからは、4月上旬には検査を求める声が県に寄せられていた。にもかかわらず、県は「検査依頼は農協中央会を通じて一括して申請してほしい」との説明を繰り返した。


 同中央会の正式要請は5月2日。県が検査を依頼する農林水産省の外部機関は各都道府県ごとに検査実施日を決めており、直近で5月10日(前日の9日採取)に決まった。県は対応が後手に回ったことについて、「5月上旬に出荷される認識はなかった」などと説明している。


こういう姿勢はやっと正されたらしい。
荒茶検査 苦渋の方針転換 県が実施へ 風評被害を懸念 : 神奈川 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
苦渋もなにも、なんで検査しない方針だったのか意味がわからないどまあいいや。


普通、測るのが間に合わない場合、
政府なら汚染の可能性がある地域の作物や魚を一律で出荷停止にし、
その分補償を即座に決めるべきだと思う。
だけどそれを生産者の人たちの自己責任にして、
かつ、測ってもいないものを食べないことを「風評被害」と名づけて
食べない消費者を牽制する。
私は、どうせ買うものを被災地域に近いものにすることでいいことした気分になるくらいなら、
それでも出荷制限になってしまった人たちを含め直接義援金を送ったほうがいいと思うけど、
もちろん買うことも自由だと思う。
なんかとにかく、政府が決めないせいで、
気にする派と気にしない派が無駄に争ったりしていてほんと無駄だなあと思う。
気にしない人は食べればいい。
気にすること自体で癌になる人だって世の中にはいるかもしれないんだから、
気にする人は気にする自由がある。


気にする人批判には、例え測ってなくても大した線量じゃないよ、というのはあると思う。
しかし、2ヶ月くらい経って「あの時たくさん飛んでましたー」とかいう発表がされる国なので、
あんまり安心して生きづらい。
あと、子供から一瞬たりとも目が離せない親御さんたちに
きちんといろんな一次文献あさって本当に危険かどうか考えてみましょう、
とかいう余裕はないと思う。
いいじゃん疑わしきは食わずで。

そんな婿の近況
ウチは規模が大きめなので、毎年、播種は4月5日、10日、15日と3回に分けてやっていたのですが、
今年は義母と議論して議論して議論して
作付を自粛することにしました。


理由は3つ


そもそもなぜ作付を議論する余地があるのかというと、4月23日、いわき北部は緊急時避難準備区域から外れ
30km圏内でも作付にGOサインがでました。


当時、作っても大丈夫なのか、土壌調査はしたのかと問い合わせた婿に対する農協や市のコメントは
「土壌調査はしてない(ウチの地域)けど大丈夫です。制限が解除されたので作ってください。」 でした。
(その時点で土壌調査されていたのは、あの広いいわき市でたった4か所)


作って、汚染されていたらどうなるのか、その買い取りに関しては責任を持ってくれるのかという問い合わせに対する返事は
「わかりません。あくまで自己責任で」 でした。
作らなかったら補償はどうなるか?と聞くと、対象になりませんという返事




要するに、
作んなかったら補償ナシな、だけど作っても俺たち知らねえから
でした。
どこの剛田さんとこの息子かと思いました。

買うのは自由、食べるのも自由です
買う人、食べる人には素直にありがとうございますです。心の底から。


しかしながら


福島の作物を買うのが支援で良いことで
それを否定する人は神経質で良くないこと


そんな風潮、こんな風潮を作りだそうとしている人達


心の底から反吐が出ます。

一番辛い思いをしているのはもちろん現場の人達だ。
自己負担で線量を測って自粛したりしている。


「決めない上の人達」


にみんな翻弄されている。
自分もだけれど、一個人として、一市民として、周りがどうするかじゃなくて、
自分としてどう判断するんだ、ということが今回一番問われたと思う。
我々の世代が言われつくされた「自己責任」とは若干違うニュアンスとして。



あとは、なんかあったっけ震災関連。
あ、原発の是非か。
放射線の被害についてもそうなんだけど、結構複雑な計算の連続だと思うんで、
何が是なのか私の情報量と頭では判断出来ない。


ただ一つ気になるのは、震災直後に(他の稼動している)原発を止めてという
訴えをしていたのは技術者(実際に作った人も含め)の人が多かった気がすること。
設計書があったとしても、細部は職人の腕次第で仕上げられていく建物だけれど、
「ちゃんと作ってないんだから」と訴えていた技術者の人もいた。


経済系の原発推進派の人たちに言わせると、反対を唱えるのは無職か主婦か老人が多いそうで、
経済に与える打撃について計算出来ない人は不安定な自然エネルギーをすぐ主張する
とのこと。
経済効率を維持するには原発がいるのかなあと思わないでもない。


しかし、推進派の人たちも、活断層の上にあったり、ちゃんと作ってなかったりする原発
嫌なんじゃないかなあ。何かあった時のコストが経済効率どころじゃないし。


まずは、一基一基、こんどこそ「想定外」のできるだけないように点検すること、
技術を見直し、シミュレーションし、リスクを計算すること。
そしてそれでも万が一のことが起きてしまったときの住民避難の段取りと補償の枠組みを
明文化して予算も見積もること、
んでそれを世界にも示すこと。


とかやった後じゃないと議論にならない気が。


いろいろ勉強していかないといけないすね。生きるには。
自分も多くの場面において「決めない人」だったなと反省している。