家庭基準普通消費量について

信州で育って、大学で初めて他県に出たのだけれど、そこもまあ田舎で、
というか東京には長野より遙かに出やすいのだけれど交通が不便といういわゆる陸の孤島で、
基本的には、特に刺激のない景色の中で日々を暮らす場所だった。
長野から出てきた私には別に生活が変わったわけでもなく、休日に近所を歩いたところで何もないのは長野とは変わらず、しかしやる気出せば東京には余裕で行けるその場所は便利だなあなんて感じていたのだけれど、
東京育ちの人のそわそわ度が酷かった。鬱憤が。曰く、物がない、らしい。


ああこの人達は学校の帰りに寄るところだとか、休日にちょっと出れば楽しいショッピングが出来る場所だとか、レストランだとか、何かこう、刺激というか、キラキラした何かがないと死んでしまうのだ、と知った。


私は消費すべき物が、その供給量が、自分の需要を超えて潤沢に存在する場所に育ったことがなかったので、ああ、そういうものが受け取れ、自動的にそれが更新される場所に育った人は違うなあと思った。
やっぱり供給量が多いから、一日の、というか人生の時間の中で消費に充てる分量が多かった。私より。
読書だけは田舎育ちも都会育ちも変わらないのだけれど、他がね。映画とかイベントとかそういうリア充的なあれ。
(もちろん親の習慣やお育ちの階層にも左右されるのだけど、どのみちそれは消費するコンテンツに溢れてる都会での話)


まあ、大学は勉学をする場所であるので、その田舎は勉学をするには多分適した場所であり、都会に育った友人達もそれは充分分かっていたので、さっさと諦めたり切り替えたりしてその分勉強に集中してはりましたけども(結果私よりもずっと)。


でも、最後まであの場所が馴染まなかった人もいたかなあ。ほぼ毎週末東京に帰ったりとか。


とにかく、他者から供給される、他者によってお膳立てされたコンテンツの消費量というのは育ちによって違うのだなあと初めて知った経験だった。
それぞれみんなそれが「普通」なんだけどね。
コンスタントに遊びに行く場所を探すのか、旅行も定期的に行くのか、はたまた特別なイベントでもなければ何もないのがデフォルトか、それぞれに習慣。



月日は流れ、結婚したら、転がり込んだ先のお家の食生活が、カロリー的に多分実家の1.5倍あった。
うちはどうやら草食家庭だったらしく、肉や揚げ物ってそんなには食べなかった。
肉は一週間に二、三度度食べるかで、揚げ物は月に一、二度とか。
魚と野菜は大好きだったんだけど。
あとおやつを食べる習慣がなかった。特に誰も買わなかった。


嫁ぎ先は男兄弟を育てた家だったので、肉ばかりではないけれども「食べた気のちゃんとする」料理が毎度と、あとはデパ地下などの美味しいお店をみんなたくさん知っており、コンスタントに家に甘い物があった。
わたくしは順応性だけが取り柄であるので、疑問なくその食習慣を受け入れた。
ところ、瞬く間に5kg太った(当然私だけ)。


(納得いかないまま今に至る)


それまでに培われた私の代謝が省エネ過ぎて、肉食家庭にまったく適応出来ていなかったのでした。
あああ、これもまた「普通」消費量の差なのかと実感した。
そこからの類推として、世間の「痩せない」人がなぜ痩せないのかも分かった。
その人が「普通」だと思ってる消費量が、多分普通じゃなくて、多い。
何の気なしに普通に選んでるその飲み物、小腹が減ったときに普通に口に入れる食べ物。
その積み重ねの差。習慣の差。普通の差。


小さいお子さんのいるおうちとか、家族全員で似たような体型していることが多いけれど、
その家の普通が作り上げた体型と言える。


何の消費に時間を割いているかがその人を作る。
その習慣は最初は家庭で作られる。
同じ習慣を何の疑問もなく通せば、親とだいたい同じ人生になる、かもしれない。
どこかでその習慣を見直す機会があれば、違う人生になる、かもしれない。


今の時代は田舎や都会にかかわらず平等に消費できる「インターネット」があるので、
親と同じ時間消費の仕方をしている人は少ないかもしれない。
まあ、テレビを見ていた時間がそれになっただけかもしれないけれど。


何がどうっていうんじゃないけれど、面白いなあと思います。
どういう習慣を持つ人なのかな、というのは面白い。


ちなみに私はほとんど習慣がなくなってしまって、
仕事以外はネットか寝てるか食べてるか。その全てが不規則。
習慣が人を作る、とはよく言われるわけですが、まああからさまに何も作ってない。