普遍とメタと、神。
『普遍』とは、『特殊』の反対で、
広く行き渡り、何にでも当てはまり、何にでも共通することだ。
『普遍』って、偉いんだけど、
普遍なだけに、普段は気にされない。
何かの折にふっと、再確認され、
「ああ、やっぱ普遍的だよねぇ」と
しみじみと人の心に上る。
普遍は、作るものではない。
既にあるものだ。
人間は、それを後から気付き、発見するだけだ。
何度かの体験を経て、変わらない法則に気付く。
自分達が生かされている仕組みを。
ある種の人たちには、おもしろい性質がある。
自分の論が普遍であることを望みながら、
コピーライトを手放さない。
『普遍』を提示した、自らの『特殊』性を認めてもらいたいからだ。
それが世の中に遍く行き渡れば行き渡るほど、
「誰が」「最初に」それを言ったかを主張する。
普遍ならばほんとは、全ての人がいつかは気付いたこと。
なのにそれを、自分の特殊能力の手柄にしたい。
『普遍』と『特殊』を両方、一度に手に入れようとするひと。
矛盾しているので、それはもちろん、成功しないのだけど。
本当はその人は、普遍など目指してはいない。
ただただ求めるのは、メタだ。
他の誰よりも上の次元を。神の視点を!
残念なことにそれは、他の人の心を動かさない。
自分達の中に既にあるものに気付かせるのではなく、
その人が構築した世界観を新たに押付けているだけだからだ。
自分が他人よりメタである、そのことへの欲求は、
とても魅力的だ、けれども、
人々は、新しく、『特殊』な誰かに作られた、概念など欲してはいないので、
メタに立とうとする人間を、煙たがる。
欲しいのは気付きだ。発見だ。自覚していなかった法則の。
その論が”気付き”をくれる契機なのか、新しいノイズなのか、
人々の心は一瞬で判断をする。
メタになりたい人は、神になりたいのかもしれない。
でも、残念ながら、神はメタではない。
神は、普遍である。
汎用化、標準化、インフラ化。
社会でも、ねえそういうものが、一番儲かっているでしょう。
新しくて、刺激的で、誰も真似できなくて、個性的なものよりも。
汎用であり、標準であり、インフラであり、当たり前であり、
つまらなく、刺激もなく、見慣れた、手垢にまみれた、
普段は気にもしない。誰にも顧みられない。
ほら、それが、神だよ。
それでも自らを静かに誇れる器量があるか。
誰にも気付かれなくても、誰にも褒められなくても、
人々のインフラであることに、深い満足を感じていられるか。
普遍は、オープンで、優しくて、惜しみない。
踏みつけにされて、笑っている。
けなされて、喜んでいる。
普遍は、赦し続ける。
その余裕、その愛。
それが、普遍の資格。
神の資格。