さっさと深い話をして、さくさく次に行こう。
すんごい誰かを好きになって、
もうこの人しか好きじゃないだろうとか、
思っても、
盛り上がり終わると、
ああそういうこともありましたねぇ、、、(遠い目)
となるのが人の(私の?女の?)常である。
人の心に絶対なんてない。
”あの時ああ言ったじゃない”と、
言う時も言われるときもあるけれど、
その、言質取られた責任はありつつも、
今の心は違う、という事実は歴然としてある。
だからといって、他人の期待や幸せや周囲の状況を
スルーして、自分の感情を第一に、押し切る人間を、
私は嫌いだ。
人の心に絶対なんかないけれど、
その、揺れ動く心に、
簡単についていってしまう程度の人間は、
ちょっと軽蔑する。
そして軽蔑する、と言ってしまったからにはできれば
そうならないようにがんばりたいと思う。
もともと人には、心なんかじゃ左右されないほどの、
深い何かがある。
その人その人の、変わらない、変えられないもの。
心がどんなに動こうが、
”それ”に対しては人は誠実であらねばならない、あるしかないもの。
”それ”と向き合ってない人はたくさんいるけれども、
”それ”と向き合うことは格好悪いのかもしれないけれども、
でも、ほんとは誰もが愚直に探し求めなければいけないもの。
信念、というとまたちょっと薄いんだけど。
まあなんというか、アイデンティティというか。
思想に依存、教義に依存、信仰に依存、団体に依存、習慣に依存、他人に依存、
まあそういった表層的なものをアイデンティティと呼びたい人がいるなら
それもいいかもしれないけれど、
そういうものに安易に乗っかって、
世界観と自分観を形成してしまう前に、
自分がそれを選び取っている根拠と、
コアの志向性と、
向かい合ってみたい。
心が動いてしまうということは、
それは自分に取ってどっちでもよかった、
ってことだ。
でも、どっちでもよくないものは誰にでもあって、
自分が何をどっちでもよくないと思っているのか、
この人は何をどっちでもよくないと思っているのか、、。
そういう、
心以前の、
”コアの志向性”と呼ぶべきものが、人にはあると思う。
できればそれと向き合いたい。
自分のも。他人のも。
じゃないと、簡単に変わる心にいちいち流されて、
疲弊したり、磨耗したり、時間の無駄だったりする。
現代って忙しいからさ。
適当に流す会話も楽しいけれども、
もっとお互い、自分を格好悪く突き詰めてから、
お互いの本質について、さくさく話を進めていこうよ。