文系のオープンと理系のオープン
恐れ多くも梅田さんに絡んでしまったせいなのか、
前エントリに、コメントやTBやぶくまたくさんしていただいてしまった。
私を含む多くの人達は、ネットの隅でこそこそやってる気分でブログ書いてると思うんだけど、
ああフラットなweb世界に場末は存在しないのねと薄く思い知った今日この頃。
ただ、世界がヒエラルキーの元にインデックス化されていた頃と違って、
フラットだと逆にどれがどれで誰が誰なのやらさっぱりなわけで、
今度はこの大海原で、情報を釣ってくれる人がいてこその世界って感じですね。
私が(似非)社会人に成りたてのころ、
リクルートのナレッジマネジメント―1998~2000年の実験
って本を読んだけど、そこにも、
膨大な情報を全部きれいにインデックス化しようと血眼になって入力・整理してても意味はない、
それよりも社内で、誰が何の情報を持っているかを明確にしておけ、
というような事が書いてありました。たしか。
なんでもぐぐる時代じゃなかったので、そうそう、私の「お気に入り」には「リンク集」ってフォルダがありましたなあ(懐古)。
・・えっと本題。
ところで、コメントやTBを拝見して、
いろんな”オープン”があるんだなあということが分かりました。
んで、私がweb2.0に抱いているイメージってとにかくオープン!って感じなんだけど、
それはもう、そこには、文系の自虐意識というか、開き直りっていうのがふんだんに含まれてるんだってことが、
よく分かりました。
id:wanwangorogoroさんに教えてもらって買った(始めて買ったよ・・目次探すのに3分もかかったよ・・)今月号の文芸春秋*1の
梅田さんのインタビュー記事、”グーグルを倒すのは'75世代だ”で、梅田さんは下記のように言ってる。
ウェブ2.0社会の特色は、すべてのサービスが不特定多数の人に対して自由に開かれているということです。
(中略)
つまり、ウェブ上のサービス構築に人々が自由に関わることで、将来的には”ウェブ上の全ての情報技術が無料になる時代”がやって来るのです。十年後にはおそらく想像もつかないことができるようになるでしょう。
インターネットの時代になって、それは”総表現社会”と梅田さんが表現したけれども、
オープンの波に、一番先に喰われ始めたのは文章で、次が音楽で、今が映像。
要は、文系の食い扶持から先に喰われ始めてる。
ただでさえ潰しが利かないっていうのに。
理系の人だったら、例えばプログラマの人達だったら、
オープンに2段階がある。
成果物のサービスがオープン(無料)なのか、そのソースコードがオープンなのか。
そこでみんな上手く使い分けをしてる。
オープンにするソースとしないソースを分けて、web1.0とweb2.0、そしてリアルとの間を自由に行き来している。
でも文系の場合、、
例えば作家の場合(理系の作家ももちろんいるけど、そういう人達はみんな専門分野という”ソース”を持ってるからなんか違う)、
成果物(文章)が、いわば組まれたソースコードそのもの。
隠せるコードなんてない。
ソースをオープンにするもなにも、文章で金を取るか取らないかの2択しかない。
そしてweb2.0の今、金を取る、という行為がどんどんと難しくなってる。
本がフリーでウェブで読めるとなったら買わないし、
音楽がフリーでウェブで聴けるとなったら買わないし、
映像がフリーでウェブで観られると思ったら買わない。
今、著作権管理団体が頑張っているわけだけれども、みんなの敵扱いされてるし、
そういう、テンション下がりがちな解決法でいいのかどうかは未だわからない。
インタビューからもう一箇所引用。
僕は、ネット社会とリアル社会は並存する別世界だと思っています。それぞれ別の原理原則で動いている。ネットではおカネも期待されるほど動かないだろうし、情報だけが純粋に行き交う場所なんです。人それぞれにネット空間との接点はあるけれど、それは本当に”結び目”でしかないのです。近年の金融テクノロジーの変化と実際の経済との関係と同じです。
梅田さんを始め、多くの人はウェブの経済圏とリアルの経済圏は別だと言っているけれども、
(梅田さんの場合は、文芸春秋の読者層を想定してわざとこう言って安心させたかったのかもしれないけれど、)
今喰われているメディアに関わっている人は、もう、理系の人達みたいに、
リアルとウェブで使い分けたり、別の経済圏があったりなんて、
そんな悠長なことは考えてられないと思う。
情報を発することで食べていこうとする人にとって、
webの”情報だけが純粋に行き交う場所”は充分にリアルなのだから。
それと同時に、これから「表現」を本業として生きていきたいと思う多くの若者達もきっと、
自分のキャリアパスを想像出来ないでいると思う。
”趣味で片手間にやってるすごい上手い人”と自分との差はなんなのか。
自分がそれだけで、それを本業として生きていくにはどうしたらいいのか。
そういう人達に取って、もう縋るものは1つしかない。
人々の善意。
これだけ情報が氾濫する中、自分一人がどんなに頑張ったって集められる情報はたかが知れている。
自分の脳内のネタであろうと、表現技巧であろうと、その組合せであろうと、
囲ったり、クローズドにしてる場合じゃない。そんなことが出来るのは、一握りの天才だけ。
昔なら、HPが本になるからってコンテンツをウェブから消したりなんてことがあったけれども、
今そんなことをしたらみんなにそっぽ向かれて誰にも買われない。
(というか誰かがアーカイブをどこかにアップするだろうな)
でもなぜか、全てオープンにすると、何かがあるかもしれない。
自分が自分のアイデンティティをかけているものを、片手間や息抜きなんかじゃないものを、
思い切って全部吐き出したなら、その方がもしかして、何かあるかもしれない。
少なくともフィードバックがある。囲っているときより、自分の成長がある。
もしかしたら誰かが手を貸してくれるかも知れない。
自分が存在する価値を認めてくれるかもしれない。
ウェブに載ってるのに、本を、CDを、DVDを買ってくれるかも知れない。
もう、オープンが最後の手段かもしれないところまで、文系・・っていうか「表現組」は追いつめられてるような気がする。
もしも誰かの表現が全て無料であったら。
今度こそ本当に表現したい人の表現が評価されるかもしれない。
私みたいな文系が、技術をわかりもしないでweb2.0にこれだけ夢見てるのは、
性善説を信じようとしているのは、
メディアの人達に本当に同情してしまうのと、
でもその中でこそ本当の輝きを見せて欲しいと思うのと、
両方が入り交じった感情・感傷が、
あるからなんだろうな。
と思った。
*1:インタビュアーの人がうちのお偉いさんの思考回路に合わせてくれたかのような的確な質問→梅田さんの答えの引きだし方なので好きです