極端であるという役割
物事は結局のところ、中庸であることがきっと一番よいのだけれど、
個人的には、ヘーゲルの弁証法みたいな世界観を愛しているので、
何か2つの論の対立があった場合、
片方が破棄されて片方が残るのではなく、
片方が否定はされつつも、両方が養分となって新しい次の次元に生まれ変わる(止揚される)、
という捉え方がよいなと思う。
人の思考はいつでも動的であるのがいい。
垂直(メタ)でも水平(カテゴリ)でも、
1つの事象に対しての考えようなんて無限にあるので、何か1つの考えで思考停止するなんてことは、
頭がちゃんと働いている限り、出来っこないと思うし。
そういう意味では、
最初から中庸であるなんていうのはつまんない。
例え同じ結論になろうとも、
色々あった末の地に足の着いた中庸と、経験の伴わない人間味のない中庸は、
何か、絶対、「濃さ」が違うと思う。
思考が動的であるためには、燃料が要る。
それは何かというと、選択することだと思う。
何か1つの論を選び取ることだ。
それ自体は極端だろうが、(結果論で見たら)間違いだろうが関係ない。
何か1つが選択されると、それに対する反論が出てくる。
それが重要なのだ。
そこで揉まれて初めて、論が1次元上に昇華できる。
それがもし、”間違っているのではないか”とか、”無駄なのではないか”とか、
そういうことを思って最初の選択がなされなかったら、何も起こらない。
間違いもしないが、最適な答えにも辿り着かない。
選択をしなければ、世界は、始まらないようになってる。
こういうことは、1人の人間の脳内で日々行われているのだけれど、
もちろん、集団で行ってもいる。
社会、組織、国、、、いろんな単位で。
そういうときに、全体の利益として、
最終的に”濃い最適な結論”を生み出したい場合、
その構成物(個人だったり、グループだったり)がどう振る舞えばいいかというと・・
どっちかというと、極端、であることがよいんではないかと思う。
これはもう、役割として。
お互いが担当した論についてはとことん主張する。
でも、批判上等、淘汰歓迎。
濃い結論のよい養分であるためには、出来るだけ極端な方がいい。
メタでありたい、止揚してしまいたい欲は個々人の中にあれど、
それは我慢して、がんばって極端になる。
ジャッジメントは、止揚は、他人なり、オーディエンスなり、後世なりに託すのだ。
ディベートみたいに、最初からチームを組んでやるのもいいけどまあ、
とりあえずそれよりはもっと自然な感じで。
個人的に最近、一人一人が脳内で既に中庸として最適化されていて、
どうもつまんない。
みんなバランス取るのが上手い。
政治とかも、みんなだんだん主張が似通ってくる。
極端な事を言う人がいなくなってきた。
これだけ情報(判断材料)過多の時代においては、
政治家は票が集められないし、ブログは炎上してしまうからだろう。
私は最近日常生活でとても口が悪いんだけれども、
みんな批判するでもなく、黙られたり、流されたりする。
わざと偏ったことを断定調で話してるのに、
取り立てて何も言われない。
たまにはやり込めてほしいんだけどなあ。
取るに足らないと思われてんのかなあ。
ま、たかだか30直前(いたたた)の小娘が中庸である必要性は社会的に全くないと思うので、
これからもも好き放題は言うけれど、、、。
んー、話がまとまらないんだけど、
とにかくこの格差社会で、考え方だけ一億総中庸なんてキモくてやってられないので、
オプティミスティックでも、ペシミスティックでもなんでも、
とにかく何か信念を自発的に「選択」している人というのは、
私はそれだけで尊敬しますよ。
たとえ共感できなかろうが、ブログが炎上していようが。
より良い未来への良い燃料になるではないですか。
論戦が無駄(不毛)じゃないと思った場所ではやっぱり*1、
分かったような無価値な傍観者であるよりは、
尊敬を込めて、自分もよりよい燃料になるべく、炎上に参加したいと思うし。
*1:不毛な場合はスルーしましょう