インテリたちの身体論
お勉強が出来て、頭が発達して、熟成しているけれど、
一見して、身体が置き去りにされていることが分かる
人は多い。
子供の頃の選択肢で、もともと運動の得意ではない人が
学問の道の方を選ぶことが多いということもあって
身体の成長や調整には特段気を払わないまま、
知的好奇心に導かれ、言葉−表象−の世界に没頭していく。
実際は、
姿勢が変われば性格が変わるくらい、
重心が変われば体質が変わるくらい、
身体の影響は大きい。
タバコをやめれば脳の働きは変わるし、
肋骨がきちんと開けば睡眠時間が変わる。
世の中には、恵まれた人種が居て、そういう人たちは、
最初から、重心が定まり、身体が曲がる要因がなく、
自分の意思のとおりに、何の抵抗もなく、
きれいに身体を動かせる。
普通にしていて太らないし、肩こりも腰痛もない。
朝はすっきり目覚めるし、睡眠時間は少なくていいし、体力もある。
魅力的だし、運動も出来るし、コミュニケーション能力もあるし、器用だ。
頭の切り替えも早いし、優しいし、美しい。
そして何より、立っているだけで、存在感がある。
自分の重心が定まらない人間が、きちんと立てていない多くの人間が、
どんなに上手く楽器を演奏しても、
どんなに素晴らしい論文を書いても、
適わない存在感。
頭の発達の方に先に力を注いだ人でも、
気の回る人は、途中で気付く。
学問を本当に究める途中では、どうしても、
今まで外部対象にばかり向けられていた目を
一度自分自身にも向けなければいけない時があるからだ。
そして気付く。
古い昔に置き去りにした身体が、
自らの脳という機能に制限を加えていることに。
そこから、一種の自己回帰が始まる。
脳と身体を、再度繋げる作業。
昔封印したはずのコンプレックスを、埋め合わせるように。
身体では勝負しないと決めた自分の間違いを、
取り返すように。
でも、もともと頭がいいから、
ただ運動してみるんじゃなくて、
それを、身体「論」として扱う。
身体と脳の密接(も何も、脳は身体の一部だけれど)な関係を体系付け、論理付け、
そして、実践する。
身体全体で人が考えていることを論じ、
身体全体で人が歌っていることを論じ、
身体全体で人がコミュニケーションしていることを論じる。
もちろんたどり着くのは、
最初から何も考えずそれがやれていた人種と
単に、同じ場所だ。
遠回り、お疲れ様。
でも無駄じゃない。
もちろん私がこういうことを考えるということは、
自分にも同様のコンプレックスがあるということを意味するわけで、
そうやって、遠回りして「論」にしてくれる人たちの
恩恵に預かる1人だ。
齋藤孝さんや内田樹さん、茂木健一郎さん、、
今浮かんだだけだけど、
みんな、身体(論)にとても興味を持っている。
難しいことをたくさん考えられる人たちが、その結論として、
シンプルな事実に回帰していく途中で、
結局は、身体なのだと、教えてくれる。
最初から立っているはずだった場所に、
最後にやっとたどり着けるように
なっている人生って、
深みがあって好きだ。
最初から自然に立てていた人よりも、
思いっきり乖離して、そこから這い上がるように戻ってきた、
そんな、ちょっと不恰好な、「獲得された身体性」を持つ人たちは、
結局のところ、結構、強くて、しぶとい。