文系教授の恐ろしさ
お断り:えっと、100%主観の話をします。
大学に入ったとき、(文系の)教授たちの勉強量というのを
垣間見ることがちょくちょくあったけれど、
それを見て、ああ学問の世界に自分は無理、と
早速挫折した記憶がある。
理系は、他人に話を聞いてほしくばまず英語で書け、という
素晴らしい効率化がなされているけれど、
文系は、興味があるなら俺の母国語を勉強しろよ、
という世界である(わりと)。
で、その国の言葉を勉強すれば理解できるかというと、
んなこたーない。
行間というものがどの国の言葉にもあって、それを理解しないことには始まらない。
国際的に共通した術語の定義がされる理系と違って、
国ごとに概念の集合(たとえば”愛”が何を指すかとか)が違う自然言語を
そのまま利用している、もしくはオリジナルに概念を製造しているので、
つまりはその国の文化や時代性を理解しないことには、「専門」として
語るまでにたどり着かない。
たとえばドイツ哲学者の誰かを研究するとしても、
日本人にはない下敷き−キリスト教とかギリシャ悲劇とか−をさらわないと
まず問いの設定からして理解できなかったりするところから始まり、
原語で著書を全部読破するのは当たり前として、
(翻訳はその時点で翻訳者の”思想”が入り込んでいるので1次文献にはならない)
大体その哲学者自身があの世にもめんどくさいラテン語やギリシャ語の文献を
参考にしていた日にはそれらの原書にもあたり、
その哲学者に心酔したフランス人哲学者に興味を持てばその人の原著にもあたり、
もちろん各国の先行論文にも目を通し分析し・・
・・・って何ヶ国語修めりゃいいんじゃおりゃあ!(怒)
みたいなことになる。
(しかも”研究”はそこから始まる)
少なくとも文系の学問を続けるよりは、
就職氷河期で泣きながらさまよったほうがまだ楽だ、
と痛感したのでありました。
もし私が(皆さんより)遠くを見渡せていたのだとしたら、巨人の肩に乗っていたからです。
とニュートンが言ったそうで、理系の人からはよく”巨人の肩”表現を聞く。
謙虚さに満ちた美しい言葉であるが、
追求したいこと、解決したいことがある程度共有されていて、
その研究においてそれぞれ体系がきちんとしてる理系だから言えたともいえる。
(一番手だけが抽出されて後が捨てられるという世知辛い習わしの成果ともいう)
文系は、文系にもよるけど、
「肩ってどこ?」「巨人ってどこまで?」みたいなことになっているので、
「どちら様が最後尾ですか!?」
と聞いても
誰が最後尾かなんて最後尾の人にもわかんないんだから、
誰も答えてくれない。
相当研究して、
「俺こそがメタだ!」
と主張してみても、
「そうゆうメタもあるよね」
になり、
「そのメタ隣の巨人で100年前に既出」
と言われ、
止揚され、アナロジーに組み込まれ、消費され、古びていく。
だから、もう見渡す系はあきらめて、
○○と○○の関係、みたいな、
ニッチでミクロな世界の探求に勤しんだほうが無難ではある。
あ、ここら辺は理系でもそうか。
とにかく、そういった業界で、ふてぶてしく生き残り、
ましてや頂点にいるような文系教授達というのは、
適当なことを言って、楽して暮らしているようでいて、
物凄い知識の蓄積が脳に刻まれているのであって、
私たちが10冊や20冊本を読んで仕入れた知識の受け売りや、
私たちが昨日今日”考え付いた”「新しい概念」なんてのは
ニコニコして聞いてくれていながら、
(ありがちなメタだねぇ。若いねぇ。)と
心の中で軽く瞬殺しまくっている、恐ろしい人種である。
社会に役立ってるか、と言われれば、そういう観点から行くと
評価されないかもしれないけれど、
気の遠くなるような情報収集に昼夜明け暮れながら、
人間を「文化」という長期スパンで捉え、分析し、考え続けてくれる
役割の人たちは、絶対に必要な、稀少人種だと思う。
・・・・怖いから近づきたくないけど(トラウマ)。