問いを探す旅。
問いと答え、いつでも問いが先ってわけではなくて、
答えから、問いを発見することって、結構あると思う。
今ちょっと具体例が思いつかないけれど、
何気なく目に触れたものに、
何かを見た瞬間にそれが答えであることを示す問いが後から浮かんでくるとき。
ああ、自分はこれを求めていたんだな(気づかなかったけど)、という気持ちになる時。
なんかこう、目にした何かが何かの「鍵」であることをなぜか確信して、
その鍵を手に、問いという扉を探しに行く感じ。
もちろん、自分の中に潜在的な「問い」があるからこそ
それを「答え」だと確信する自分が出てくるわけだけれど、、。
例えば、web2.0という現象に対して、
web2.0を「問う」人と、それを「答え」にした人がいるんだと思う。
web2.0が、私も含め一部の人たちにとって
爆発的なインパクトを持っていたのは、
それが私たちにとって、それぞれが持っていた何かの「答え」のひとつかもしれないと、
思えたからだと思う。
問いといっても、その、、日ごろ問題意識を持っていた、、
とかそういうプラグマチックなことじゃなくて、
世の中とか、生き方とか、そういう、ざっくりとしたものに対して、
自分としての落とし所をどうするかみたいな。そういうイメージ。
既存の世界観だと何かテンションあがんないんだけど、そこんとこどうなの?
みたいな。
一方、別にweb2.0が答えでもなんでもない人たちももちろんたくさんいる。
そしてweb2.0自体を問いにした人も今回たくさんいるだろうし、
そもそも問いでも答えでもなく、未だ意識の外においている人もたくさんいるだろう。
えっと何が言いたいんだっけ。。
そうそう、だから、
「問い」というのは、一種のベクトルだ。意思のベクトル。
問いが、私たちの意識(もしくは無意識)に放たれた途端、それは答えを求めだす。
自覚しているにせよ、していないにせよ、その人に、その瞬間に答えを探す”アンテナ”が立つ。
これはもうほんとに人それぞれで、
もう、何を問う人なのか、を知ればその人が知れるほど、バリエーションがある。
問いの数だけ、人生がある。
ところで何が難しいかって、それが答えであることを、その問いを持たない人に説明すること。
きちんと順序を踏んで、最初に問いがあって次に答えがあったものというのは、
問いが顕在化しているので、他人に説明したり、その問いを共有するのが簡単なんだけど、
答えからさかのぼって、実はここに問いがありました、なんて説明をするのは、結構めんどい。
そしてその難しさの根源は、
「それが答えだ」ということはなぜか確信を持って言えるのだけれど、
「しかし何の答えだったかしら」ってのが本人にもよくわからないところかな、と思う。
そして、「それが何の答えなのか」という、
「問い」を探す旅というのは
切実な問いが先にあって、どうしても答えを手に入れたくて焦る心境に比べて、
なんて自由で、楽しくて、美しいんだ、
とか思う。