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『ウェブ人間論』感想(2)匿名・実名・アイデンティティ?

引き続きごく個人的感想。
気になったことつまみ食いしていきます。


匿名か実名か・・・私が匿名なのはこれもやっぱり危機管理だなあ。
頭がマトモな人だけがいるわけじゃないからなあ。ウェブ。
ものすっごい可能性低いけど、たとえばここで私が不用意に愚痴ったことが癇に障って
どこかから住所調べてある朝家の前に立っていた、とかやだもん。
ていうかそもそも、私がここで本名を書いても、別に誰もその名前に心当たりないわけだから、
ああそうですかということで、それはchanmという記号と違わないのよね。
ウェブにはウェブネーム、リアルにはリアルネーム。
両方で知ってる人には、両方を伝えます。片方だけの人には片方。そんだけ。


さておき、

平野 実際には、現実の世界にもまともな部分と怪しげな部分とがあるように、ネットの中にも同じような部分がある。「2ちゃんねる」の中にはヒドいスレッドも多いけど、現実の出版会にも非常に低劣なものはありますよ。にもかかわらず、両者が単純に同じだと言えないとすれば、結局、顔が見えているかどうかだと思うんです。そうして、現実の世界には顔とともにある自分を対応させ、ネットの世界には顔なしですませたい自分を対応させるという生き方を採用するとなると、これは主体のあり方にとって、よくも悪くも非常に新しいことなんじゃないかというのが僕の考えなんです。
梅田 もちろん同感します。ただ、その「新しさ」が、どのぐらいネット全体の問題を考えるときの「へそ」なのかというのが、僕がこだわっているところかもしれません。
平野 それは、その通りだと思います。僕も、それが「へそ」だとは言いませんが。
梅田 僕は、知の可能性のほうに偏り過ぎているのかなあ。
平野 いや、基本的には、僕もそっちの方の可能性に興味を抱いている一人ですし、その発展に期待もしてますが、やっぱり、「ネット全体の問題」というときに、こういうことも考えるべきだとは思ってるんです。行為の結果が社会的な自己に跳ね返ってこないというのは、決定的に新しいんじゃないですかね。(p89)


平野さんはわりと、リアルとネットの人格が乖離している人について危惧している。
(特にリアルで抑圧された部分が負の感情としてネットで出ている人)
ネットにエネルギーが収斂して、リアルが霧散してしまうのではと。


結構意外。平野さんの学歴(京大法学部卒)だと、たぶん人生、周りにはほとんどマトモな人しかいなかったと思う。話せば分かる人、話の通じる人、人格の統制が取れている人、昨日言っていたことと今日言っていることが違わない人etc...
あんまり人間としての”汚らわしさ”とか”どうしようもなさ”とかをリアルにむき出してくる人が周りにいないと思う(というか、私ですら見たことないし)。
それがウェブだと、2chとかだと、もう見本市ですかってかんじに、むき出しの、鬱屈した、自己中な、猜疑に満ちた、気分の悪くなるような感情が見られたりするんでしょ。
小説家にとって、これほどリスクなしにいろんなサンプルが得られる時代ってないよなうっしっし。その調子でくだらない愚痴を延々続けてくれたまえ。
・・とか思わないでちゃんと(アイデンティティについて)危惧しているのはそういう人たちを人格として捉えているからだろうな。


梅田さんの方はそういう多様性をすべて等価に「情報」として捉えてる感じがする。
たぶん日々接してるサンプル数が膨大で、その中から自分にとって「玉」である情報を
より分ける能力に長けているから、そういうところでは引っかからないんだろう。
私もこっちに近いかな。
結局、ウェブ上の人格はその人のすべてではあり得ない。
所詮私が知れる情報もたいしたことはない。
だから、ウェブ上での振る舞いがいくらヒドくても、
その人はリアルでは「まとも」に生きてるかもしれない。
それならそれでいいんじゃないの?と思う。
リアルではあんまり知り合いたくないけどね。



・・特に、自分の場合は、(特に理由のない)批判や罵詈雑言だけで構成されている”人”って、ウェブでもリアルでも人格とは認めていない・・ところがある。


アイデンティティの問題は学生時代になんやかや考えたけど(哲学科だったんでw)
結局アイデンティファイするのって自分なんだよねぇ。
他人にアイデンティファイしてもらうのは不可能なんだよね。当たり前だけど。
他人に自分の輪郭を全部把握してくれ!って無理。
それもさ、自分が自分であることを確認するためには、他者を必要とするのよね。
(ここテストに出ます。)

もっというと、自分が他人ではないということが逆説的に自分を自分だと規定してくれる。
その方法でしか自分を自分であると認識できない。
自分のボディと空気の境目があってこそ自分の肉体をを自分だと指せるのと一緒なんだけど。
暗闇にぽつんと立ってると、他者も分からない代わりに自分も分からない。
他者を認められずにいると自分も認められない。
他人を否定することで自分を誇示しようとする人もいるけど、他人の否定や批判で自分が相対的に浮き上がれるかっていうと、そういう試みはまず失敗する。
それどころか、ますますその人の自己は埋没していく。
なぜならその人は他人の否定や批判に自分の存在を依存しているから。
逆に認めるとね。他者の存在を認めることによって自己の輪郭もはっきりしますのでね。
結構清清しいことになるんだけれども。。
まあそういう感じで。
(ああこういうことはヘーゲルが教えてくれたんだった気がする。直接的にこういう話はしてないとおもうけど。ダンケ。)


つまり、匿名の、批判するだけ、否定するだけの言説の向こうに人格は実在していないと
思うわけです。私。
平野さんがいう、顔のない状態。それはもう人格ですらない。そう思う。
だからスルー。だって人じゃないんだもん。まじめに対峙する必要はない。
それでいいような気がする。
行為の結果が跳ね返らないとはつまり、跳ね返るだけの自己がないんだよなあ。


本人も案外、書きなぐったあとですごい虚しさを感じたりとかね。。
しないのかな?してほしいなあ。
すごい消耗するはずなんだよね。それこそ、その人のアイデンティティが。



あと、全然関係ないけど、
言ってることは正論なんだけどものすごく”むかつく”書き方のコメントをする人がいて、たまに炎上したりしているけれど、そういう人の何割かは、アスペルガーなんだと思う。
つまり本当に悪気があってそういうわけじゃない。
そういう”多様性”はきちんと気づけないといけないんだろうな。文字だけじゃ難しいけど。