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『ウェブ人間論』感想(5)大渋滞がスタートラインになる日。

(まだやってました)


NBonlineニュースを斬る>2007年を斬る:「働く」って何だっけ?

田坂広志さんのインタビュー。いろいろと考えるところが多かった。
goo のほうだと会員登録なしで読めるのかな。ぜひ読んでみてください。)


(そういえば田坂さんの言葉には、私がなんも考えずに社会に出たばっかり(=ばりばりのニートマインド)のころから多少の社会人マインドを形成するところまでたどり着くまでに結構お世話になった。風の便りとか。)


これもまえにどっかで、、たぶんpodcastで聞いてたと
思うんだけど、普段もっぱら”聞き流す”ことにしか耳を使ってないもんだから(汗)、そのときはふふふーんと思って終わってた。
耳からのインプット回路を整備したいなあ。。しかしどうやれば。



まあいいや、えっと、いろいろそれでウェブについて考えたんだけどとりあえず一つだけ。

「知識社会」とは単なる知識が価値を失う時代

 これからは「知識社会」だと言われますが、これは知識が価値を失う社会なのです。つまり、言葉で表せるような知識は誰でも手に入れられるようになる。インターネットで検索できる、電子辞書には100冊分もの辞書が入っている。知識がコモディティー化して、逆に価値を失ってしまうのです。これからは言葉にならない知恵、マインド、人間力という方向に進んでいきます。

 そういう意味では、賃金と引き換えに労働時間を提供するという労働観から卒業しなければならない。自分が「労働者」だと意識する人は少なくなるんじゃないですか。方向としてはもっと「プロフェッショナル」ということを重視していくべきだと思います。時代は個人カンパニーとかフリーエージェントに向かっていきます。お金ではなく、働きがいを求めて人々が移動していくような時代です。


田坂さんのこの話、ウェブ進化論の方で(ウェブ人間論にもあったかな?)、
梅田さんが紹介されてた将棋の羽生さんの言葉を思い出す。

「ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きています。」(p210)


そこから先へのブレークスルーには正に人間の底力勝負となってくる。
記述不可能な恐ろしい世界。
大渋滞というと、困ったなあ、辛い時代だなあというイメージを抱いていたんだけど、、、。


違うかも。ウェブのおかげで人間が知識から解放されたのかもね。


そういえば、『ウェブ人間論』で平野さんがこう言ってたのは、救われた。

情報処理のことで面白いと思うのは、80年代に活躍したいわゆるニューアカ世代の一部のひとたちには、今でも、あらゆる情報に網羅的に通暁して、それを処理することが出来るというふうな幻想が垣間見えることがあるんです。
(中略)
作家でもアカデミックな世界の研究者でも、知ってる、ということだけでは、もう威張れない。ネットの検索機能を利用すれば、誰もがその知識にアクセスできるわけですし、些末な知識は網羅的な知識の象徴ではなくて、たまたま知ることとなった一知識でしかない。(p24)


私は1つの本をほんとにのんびり読むほうなので(笑)、かつ記憶力がほとんどないので、
「誰々が何々を言った」という話になるといつも着いていけない。着いていけないので萎縮する。
あれとあれとあれを読んでこれも網羅しないと自分には何も語る資格はないのかという気分になる。
そういうことに相当な時間を割き、その記憶に脳の容量を大量に割き、それからやっと、
自分の個性を出す資格をもらえるような、そんな世界観に陥りそうになる。


しかしそれは違った。そういう知は人から離れても存在可能だったんだ。
いちいち全部を人が持ちあるく必要はない。持ってる人も別にだからって偉いわけじゃない。
誰々が何々を言ったなんて、ウェブを見ればいいんだ。
過去の知識を溜め込むことにあと10年も割かなきゃいけないとか、そんなことしなくていいんだ。
もちろん勉強はしなきゃいけない。でも保有のためじゃない。
もっと自分で、考え始めていいんだ。


そんな風に思った。


誰もが努力をすればある程度まで来てしまう時代。
高速道路の向こうには確かに大渋滞があるかもしれない。
でも、みんながそのままその方向に進まなきゃいけない理由はあるだろうか?


高速道路を降りて、そこに一本しか道がなかったら、大渋滞は確かに恐怖だ。
ほんの少数がそれを潜り抜け、後に残るは敗者たちの死屍累々。


でも、その高速道路を使って早くたどり着いた余裕を持って、
そこで一休み、周りを見回してみたらどうだろう。
よく見たらそこにたくさんの一般道が見えるだろう。
あんまり整備されていないけもの道もある。誰も開拓してないけど、登っていけそうな山だってある。
知識の多寡にとらわれず(その道はすでに通り終えた)、ほんとの自分らしさを出せる方向、
あの道を行くために高速道路を通ってきたけれど、
こっちの方が、自分に合ってるじゃんと思える道が、見つかるかもしれない。

もちろん、引き返してもいい。高速道路を通ってきたから、引き返してもそんなに時間のロスはない。


昨日のNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』のゲストは
私も大好きなMONSTERや20世紀少年PLUTOを生み出す漫画家、浦沢直樹さんだったけど、
キャスターを務める茂木さんがこう書いてた。

浦沢さんは、アイデアを生み出すときに一切のメモを使わず、脳だけで考えている。

 僕の経験でも、KJ法やアイデア創造を支援するソフトなどは、本質的に人と情報をシェアするといった場合には役立つが、核となるアイデアを生み出すことにはほとんど役に立たない。むしろ邪魔することの方が多いんじゃないかと考えている。

 以前、アートディレクターの佐藤可士和さんに聞いた時も、コンセプトが決まるまでビジュアルは書かないと言っていた。ビジュアルに頼らないのはクオリティーの高いものを作っているクリエーターに共通の流儀だ。

 その理由はこうしたツールが起こすダイナミックスよりももっとすごいことが脳の中で起こっているからだ。無意識の中でメモ帳のようなものがあるとすれば、もっと何千という数がうごめいているのだと思う。アイデアが生み出される時は、それを一気にセレクトして意識の中に出てくる。こうした脳のプロセスをツールに置き換えるのは無理だと、超一流のクリエーターが言うから説得力がありました。
NBonline:茂木健一郎の「超一流の仕事脳」>創造性を生む「半眼」の境地


脳はすごい。よくわかんないけど。
タグよりもディレクトリよりも微細な接点ですべての情報を統括している。
同じような知識を得たって、その先に起こる各人の脳のなかのぐちゃぐちゃが、
きっとそれぞれのすばらしい個性を生み出す。
脳は本当はすべてを覚えているらしいから、
本当は顕在意識として覚えていようが忘れていようが構わない。
必要なときに必要な知識がよみがえるはずだから。


でもそれがわからない私達はそれを顕在意識にとどめておくために、
膨大な努力を払っていた(って私は払ってないけど)。
そしてその知識があたかも脳の本来の使い方であるかのように錯覚していた。


でも今度は、それから脳が解放されるのだ。
ウェブの力によって。
ぐちゃぐちゃしてていいんだ。もやもやしてていいんだ。


田坂さんの言うように、弁証法の螺旋階段を一周登って、
もう一度人間らしさに、回帰できるような気がする。


それは、恐ろしいっていうより、やっぱりどっちかというと、わくわくする。