メタは楽。
昔から小説が読めない(みんなが教えてくれる良さがわからないことがよくある)、
と嘆いて(というほど悩んでもないけど)いて、こういうのからとりあへずフェイドインしていったら
よいかしらとか買ってみたりとかまだ読んでなかったりとかしていたら、
普通は文学的な感性はメタな感性と同居しない。
ああなるほどとおもった。
小説を読むということは、小説を体験することのような気がするけれど、
私はそこに留まる忍耐力がなくて、
すぐメタ、、というか”自分の感性”の中に逃げ込んで(戻って)しまう。のかもしれない。
特に、繊細な感情の動きの中に、逡巡の中に、愚かさの中に、ずるさの中に長く留まれない。
そういうもの(他人のものも、小説の中のものも、もちろん自分のものも)に対する忍耐力がないんだろう。
現実の世界に対しても、嫉妬や怒りを長く抱えていられる人に対して、その体力に驚くことがある。
皮肉でもなんでもなくて、その感情のタフさに感嘆する。
小説を”体験”する忍耐力も、そのタフさと同じカテゴリにある気がする。
私ときたら、夏目漱石の『こころ』も読めない(10代の頃途中で投げ出したまんま)体たらく。。
覚えてないけど、登場人物達にむかついて読んでられなくなってしまったのだ。
(たかが)小説の設定だというのに。
ただ、最近リアルの方ではやっと、他人の弱さといったものに、
(頭ごなしにこうあるべき論を語るのではなく)まずその存在を認め、
そのまま寄り添うという訓練が出来始めた感じなので、
(生来女性にはこういう能力が備わっているような気がするのだけど私にはどうも欠損していたみたい)
finalventさんのこう表現された趣旨は取り違えてるかもしれないけど、
まあとにかくそんなこんなで、
もうちょっとそういうのをがんばったら、
つまりもう少しまともな心にひだがついた大人になったら、
メタに、判断の世界に逃げずに、小説の体験に留まる、っていうことが出来るようになるのかもしれない
ということを思った。
うーしかしやっぱりそういうのはfinalventさんのおっしゃるように生得的なのかなぁ。
まあそれだったらあきらめて、せめて、”わからない”を”つまらない”に言い換えてしまわないように、
わからないものを、批評しないようにだけは気をつけていこうと思った。
小説に対しても、リアルに対しても。