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クオリア研究批判を批判してみる。

酔っ払って頭が痛いので、所詮文系だけれども、
幼稚なのは承知で、知ったかをがんばって、クオリア批判を批判したいと思う。


酔い覚ましにひらがな練習のお手本を見つめていたら、
先日まではゲシュタルト崩壊・・というよりむしろそれは違う字ではないかくらいに思えていた「え」の字が、
私の中できちんと「え」に、それも美しい「え」として認識されていることに気づいた。
しばらく何度も見ているうちに、
私の脳中における「え」という概念と、それに対する美のイデアが書き換わったらしい。
そうなるともう、その「え」は、最初から美しかったかのようにしか思えない。


イデアが書き換わったというと、ほんというとおかしいんだと思う。
プラトンが言ったイデアは、本質の雛形のことで、絶対的で、永遠普遍のものだ。
物事の本質はイデア界に存在する。現象界にあるものはすべてその模倣に過ぎない。
イデアは私達にとって、アプリオリだ。
私達の魂はイデア界に居た頃のことを少し覚えていて、時たま理性によって、それを想起する。
書き換わるはずはない。想い出しただけだ。「え」という字の、真の美のイデアを。


ただ、古代ギリシア生まれのプラトンにひらがなの話をしたらきっと、
「んなもん知るか」と言われると思う。
三角形や直線のイデアの話は出来ると思うのに。
たぶん平安美人のイデアの話を振っても
「あれが美のイデアってのはありえねー」と言われてしまうのであろう。
(それは私も結構同意するけど。)


まあ、ポストモダン相対主義で自主性でゆとり教育で情報化社会でグローバリズムな世の中、
なかなかほんとのイデアを想い出すのは、難しいものです(違)。


で、クオリアというのは、そういうイデア論みたいな、素朴な考え方とはあんまり関係がないように思う。
イデア論でも唯識でも唯脳論でも唯心論でも実在論でも観念論でも経験論でも物自体でも絶対知でも独断論でも懐疑論でもアプリオリでもアポステオリでも自我でも他我でも実存主義でも現象学でもいいけど、
そういった想起の起源の違いはともかくとして、
とにかく何らかの概念や質感の”認識”というのを、脳のどういった機能がどういった手順で行っていらっしゃるのですかね、ということを研究しているんだと思う。


私達とは、意識それ自体であるので、そこから抜け出て意識のイデアを掴み取ることは不可能だ。
ただ、意識のメカニズムを知ることは許されている。だろうと思う。
意識が認識しているものが真であるかを意識の内部に居る私達がたとえ証明できなくても、
その意識の式を措定することは許されている。


私には、ゲーデル不完全性定理を知って絶望できるような数学的知性も感性も微塵もないけれども、
意識が真実を捉えているか、たとえ私達には永遠に証明できないとしても、それには絶望しない。
私達がどういう仕組みでそれを実在とみなしているのか、真実というラベルを貼るのか、そしてどうやってそのラベルと脳の機能を対応させているのか、その機構を知る道が、その式を措定する道が閉ざされているわけではないから。


従来の哲学的思考法のアナロジーを持って、(それが語り得ないということが、とうに終わった話だとでも言うように)クオリア研究を批判する人が多いような気がするけれど、私には理解できない。
哲学とはクオリア生成の結果であって(たとえそれがクオリア生成に関する哲学であったとしても)、その物理的な生成メカニズムの話ではないからだ。
なぜ同じ次元で考えて批判するのだろう。
私達はどんなに意識について”意識して”も、意識それ自体にはなり代われない。
”赤の赤い感じ”というクオリアを想起した瞬間にとどまりつつ、それを認識することはできない。
だから、”赤の赤い感じ”は、哲学の領域の問題にはなれない。
哲学だけでは”赤の赤い感じ”を扱えない。


言葉のない世界で哲学が出来ますか?
出来るのなら、私達はクオリア研究の批判が出来るのだろうと思う。
その言葉を用いない、哲学によって。


出来ないのなら、脳の研究をする人たちが、出来る人たちが、
これからも、思考に次ぐ思考、仮説に次ぐ仮説、実験に次ぐ実験を繰り返し、
気の遠くなるような膨大な時間を費やして、
意識の式の措定へと挑む、あまりにも謙虚な、そして、絶望的な勇気を、
すべてのアナロジー欲を捨て去るという、
本来の、誠実な哲学的態度を持って、クオリアを哲学することによって、
全身全霊で応援すべきだと思う。
だって、すべては、終わったのではなく、これからだ。哲学ですらも。