融通の利かない大人を目指そうかと。
そんな決め事をしてもどうにもならないかもしれないけれど、
未成年、もしくはに16歳以下には、
自殺する権利・・というか自らの生殺与奪を決定する自由が
ない、という事を決めた方がいいと思う。
生きることがどういうことかきちんと体験する前に
死ぬの死なないの判断されても困る。
20歳までそういう思考禁止。そういう選択不可。判断保留。
頭ごなしに、有無を言わさず否定。
くやしかったら大人になってみろ。
その代わり子供が成人するまでの大人の責任をもっと重く。
子供が自殺以外の選択肢を選べないのは大人の責任。
子供を自殺に追いやるのも大人の責任。
いじめは大人の責任において断固介入&制裁。
子供の自主性を重んじる?
・・それは例えば、明らかに嫌われている子が居るクラスの授業で
”好きな人とペアを組んで”と指示することだ。
あの瞬間にクラスに走る緊張感。
いじめられている子にとってその”自主性”がどれだけのストレスになることか。。
こういうことは、日常的にある。
そしてその時教師は、いじめに荷担している。
子供のコミュニティは、
たまにとんでもない理屈で動いていたりする。
強者の屁理屈による支配空間。
そういうのは全力で介入し、蹴散らすのが大人の責任・・だと思う。
今の自分の適当さでそういう断固とした態度が取るのは多分無理だけど、
これからなるべく、そういう「融通の利かない大人」になる練習をしていきたいと思う。
大人の融通の壁が低いと、子供が「やっていいことと」「やってはいけないこと」の
判断をする壁も低くなってしまう。
大人がそういうことをしっかり決めておかないと子供が迷う。
それだけじゃない。子供が「乗り越えたい壁」も低くなってしまう。
一昔前に子供だった人は、家で”お前は一人前じゃない”と
子供の権利が多分に制限されていた人ほど、
早く家を出てやる、という意地が出て、きちんと自立しているように思う。
子供が何やっていてもいいなら、子供のままでいるのが一番楽だ。
でも子供でいることで自由がないなら、みんな自立に向けて精一杯考える。
善悪なんてはっきりいって人間の決め事でケースバイケースだけど、
だからといっていろいろなケースに直面するたびに
「ここでの是とは何か」を考えるのを放棄しちゃいけない。
断定するのをいつも避けてちゃいけない。
真実であろうがなかろうが、
選択をし、そしてその責任をとるのが大人っていう種族の役割なんだろう。
理解力とか包容力はもちろん重要だ。
でも、その上での頑固さなら、きっとそれは必要なあり方だと思う。