方法的信頼
デカルトは”方法的懐疑”という手法を使って「我思う、ゆえに我あり」というものにたどり着いたという。
幼児の時から無批判に受け入れてきた先入観を排除し、真理に至るために、一旦全てのものをデカルトは疑う。
この方法的懐疑の特徴として、二点挙げられる。一つ目は懐疑を抱く事に本人が意識的・仮定的である事、二つ目は一度でも惑いが生じたものならば、すなわち少しでも疑わしければ、それを完全に排除する事である。つまり、方法的懐疑とは、積極的懐疑の事である。
ルネ・デカルト - Wikipedia
(中略)
方法的懐疑を経て、肉体を含む全ての外的事物が懐疑にかけられ、純化された精神だけが残り、デカルトは、「私がこのように“全ては偽である”と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」、これだけは真であるといえる事を発見する。
人を根源に立ち帰らせるためには、いろいろと徹底的に懐疑してみるのはいいかもしれない。
デカルトは自分が考えることによって自分が在るということとしたけれど、
人によっていろいろな表象がありうるんだと思う。
それはそれとして、じゃあ逆に人を未来へ押し出すためには、と、かんがえる。
じゃあデカルトの逆だ。”方法的信頼”。
結果の保証がなくたっていいじゃない。やれるかどうかわからないなんて当然じゃない。
意味なんていいじゃない。
まずは信頼してみようよ*1。
とぐだぐだ理屈こねてやらない人(含私)に
とりあえずビール的提案。
我信じる、ゆえに世界あり。