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善悪輪舞

自分を善人だと思いたい人というのはいて、
どんな自己中な意見も上手くロジックでコーティングされて
れをその人がするのは「しょうがない」とか、
常識としてはそうだろうみたいな話に
自分で持っていき、
自分はその正しいロジックに従っているだけだと、
自分も信じて疑わないんだけど、
そういう自分自分自分自分した幸せな悪人はさておき、
たいていの普通の善人は、俺あんま善人でもないよなあと折に触れ軽くへこみながら
そこそこ生きてる。


自分があくまでも善であることに固執したり、悪を嫌悪したりする人が、
イコール善人の定義でないのが難しいところ。
たぶん。


善悪の定義なんてないけどさ。というかそれぞれだけどさ。
善悪というのは行動のことじゃなくて心根のことを
人間が直感的に捉えて評価してるんだろうね。
だから偽善って言葉もあるのね。
(私は偽善もそれが誰かの益になるんならいいんじゃんとつい思っちゃうほうですが)



善悪と言えば、中学のときか、習った、歎異抄の有名な一説、
”善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。”
はそういえば衝撃だった。
自分のなかで”善人”という言葉のイメージが揺らいだ瞬間だった。
(元ネタは法然とのこと。へぇ。)

ごく平易な言い方

すべての人が悲しみ苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察された法蔵菩薩阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに、私を信じて、私の作った仏国土に生まれたいと思って、私の名前を呼んだものは、すべて人を私の国土に生まれさせて、私の指導によって、ゆるぎない幸せな「仏陀」にさせよう、とある。

だから、我々が善いことをしようが悪いことをしようが、救われることに違いはない。しかし、善いことをしようと思うのは阿弥陀仏の誓願の働きを疑っているのではないかという理由(1)や、善いことをしようにも自分自身にその善悪の判断基準がないという理由(2)や、何を行うにしろ我々には欲望がありそれによる行為はすべて悪いことでしかないという理由(3)で、我々の行為すべてが「悪」でしかない。

それなのに、すべての人を救いとろうとされるのは、この「悪人」が阿弥陀仏の救いの目標である、とするのが「悪人正機」の意味である。

悪人正機 - Wikipedia

親鸞聖人は、
「よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり」(『正像末和讃』)
という和讃を残しています。
「よしあし」という文字も知らない人のことを「まことのこころ(真の心)」としているのに対し、「善悪」を知っているような顔をしている人のことを「おおそらごと(大虚言)」と戒めています。
後者は親鸞聖人が自身のことを書いたのだといわれています。

浄土真宗の教えについて - 「善人なおもて往生をとぐ、まして悪人に・・・・」... - Yahoo!知恵袋


うち浄土真宗じゃないし、歎異抄の解説も研究も読んだことないし、
あと浄土真宗の善悪は何を指すのかも全然知らないし、
阿弥陀様って言われてもピンと来ないんだけど、
まあここまで思い切られると、
善だ悪だとぐだぐだすみませんでした根本的に本質外してました、
と反省する。



・・さておき。
個人的には、これが善だ、と思考停止してそれに従っているより、
いまこの場でなにが善なのか、と、
選択の度に迷い続けている人が本当に心根が善人なのだろうと思う。
おおー善い人だーと思う。
だからといって優柔不断なわけじゃなくて、
考え抜いてひとたび決めたら自分の全責任において全してしまったりするんだけどそういう人は。



何かの善悪テンプレートにただ盲目的に従うんじゃなくて、
そのたびにきちんと迷える(=自分を疑える)人は
タフなんだよな。
親鸞の言うように、自分で善悪決められると思うのはおこがましいのかもしれないけど、
それでも決め、そしてその愚かさも罪もひっくるめて、自分でその結果を引き受ける覚悟を持つ。
で、結構そういう人はたくさんいて、そういう人たちを見ると、
ああいい大人だなあと思う。最近。


タフな大人になりたいのだー。