旧 はてブついでに覚書。

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自己欺瞞と覚悟

なんかさっきテレビで、
過去の流行語を振り返っていた。


そのなかに”ぶっちゃけ”っていうのがあって、
これはまあ過去のでもないな、今もみんな使っている言葉だ。
私もたまに使う。
まあ、本音いっちゃうとさ、、、でしょ??って意味。


絶望しやすい人は、
結構他人の自己欺瞞に参る。
君を尊重しているよと言いながら、そしてそう本人も思い込みながら、
その実自分のことなんてまったくリスペクトしてくれていない他人の本性に参る。
道徳心のある人が嫌いなのだ。道徳に従う人が。
善いことを、それが善いことであるという理由で行う人間が信じられない。


ぶっちゃけ、私のことなんか尊重してないでしょ?
本音では、他人なんてどうでもいいでしょ?




ところで私は、基本的に他人なんかどうでもいい。
他の人がどうかは知らない。
ぶっちゃけていうとそう。
私はただただ、私の周りの人がご機嫌でいてくれることを願うが、
それはそれが、自分が一番面倒じゃないからだ。
不機嫌な人間はめんどくさいからね。うざいし。
手助けしないで泣き叫ばれるよりは
手助けしておとなしくしてもらってるほうがほうがまだマシなので、たまに人のために動く。



世の中には、差別なんてしません、という人がいる。
たいてい、胡散臭がられる。
ぶっちゃけ、違うでしょ?
単なる同情でしょ?
そうやって試される。
白人とか胡散臭い。どうみても意識の底辺で黒人を差別しているくせに、
まるでそんなもの有史以来存在しなかったかのようにふるまう。
ノブリス・オブリージュの亜種。


ところで私は、基本的に差別をしないことになっている。
社会への出力としては。
誰だってみんな平等。貴賎なし。
ただ、出力以前、脊髄反射の段階では、明らかに差別してる。
自分が下だと思うことが半分+α、自分が上だと思うことが半分−α。
それをやめろといわれたって、
「ああはなりたくない」と「ああなりたい」という動機で
毎日を過ごしている以上、人に優劣なんてつけるよ平気で。
ぶっちゃけ。
まあ、逆に、差別されるのも嫌いではない。
もし、蔑まれる理由がきちんとあるのなら、きちんと蔑まれたい。
同情や自己欺瞞でリスペクトされるよりよっぽど気分がいい。



だけど。



私はいつでも本音を言う人は、嫌いだ。
ネガティブな思いを、判断を平気で口にする。
正直が、正義であるかのように。
自己欺瞞という、罪から逃れ続ける人たち。



ひとつ言いたい。
道徳とは、心根が正しいことではない。
”善くない”心持が心の中に現れたときに、
それを反省し、軌道修正し、出力としては、”善い”ものとしてアウトプットすることだ。


魂の問題である宗教では、思っただけで業だ。
だから思わない人間を目指す。
それは理想だ。


道徳は、そこにたどり着けない多くの凡人達が目指したルールだ。
たとえ心に浮かんでしまったとしても、
それを心の段階にとどめ、行動としては”善い”ものの方を選択するとう
次善の策だ。


本当は思ってもいないのに、善い事をする。
それは偽善だし、自己欺瞞だ。


でも私は、そういう人たちが好きだ。
自己欺瞞という罪を引き受けて、善いことをする人たち。
それが心からではなく、
ただ、善いことであるからという理由だけで、善いことをする人たち。



差別はしません、という人がいる。
それは、私は差別をする心を持っていません、という意味ではない。
私は差別をしません、という決意をしているのだ。
元の、心に関係なく。
・・・少なくとも、自分の本性に自覚的な人は。



私は、アウトプットとして”善いこと”を選択する人たちを尊敬する。
本音で生きて、何もしない人たちよりも。



私は、他人なんかどうでもいいし、差別もする。
でも、そんなことをわざわざ言って、ぶっちゃけて、一体何になる?
私は本音で生きる女です。心軽やかに。とでも?



私は、行動としては、他人を気遣うし、差別もしない。
まあ、できる限り。
自己欺瞞だし偽善だし、それは、罪だ。



でもいいよ。その程度の罪でよければ引き受けて、
アウトプットとしての善を選ぶよ。
そのほうが道徳的だからね。ただそれだけの理由。


他人さえ良けりゃいいんだと思うよ。
少なくとも、自分だけが清廉潔白であることよりもずっと。