旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

個を個のままに置くこと

あんまりファンじゃないけどミスチルって歌が出てきたときはちょっとやられたと思った。


こういう歌詞。

ひとつにならなくていいよ
認め合うことができればさ
もちろん投げやりじゃなくて
認め合うことができるから
ひとつにならなくていいよ
価値観も理念も宗教もさ
ひとつにならなくていいよ
認め合うことができるから


大学で受けた倫理学の授業は(そういや超おちこぼれの哲学科だったんで)、
内容は忘れてしまったけれど
すぐに勘違いに気づいたことには、倫理は道徳と違うってこと。
何か善き事をすること、そして悪き事をしないこと、ではなくて、
異なる価値観の人をそのままで認める(この言葉は難しいんだけど、、)のが倫理。
もちろん、すごい難しい。
道徳や宗教は自己と世間、または超越者との間の問題だけれど、
倫理は自己と今具体的に目の前にいる他者との問題。
逃げ場がない。一般化も抽象化もない。
でも、この相容れないもどかしさを解決したい。
お互いに論議の限りを尽くした時、それでもたどり着かないとき、
そこに必要なのは、主張する力ではなくて、赦したり、手放したりする力。
相手ではなく、自分の方を打ち破って、自分の中に、相手がそのまま入れるスペースを作る作業。


私はこの歌のシンプルな歌詞を見て、
さらっと、すごいことを言ってみせる人がいるもんだとびっくりした。


実際にインスパイアされて思考の方法論を組み立てられた方もいる(構造構成主義)。



まあ、そのときは、びっくりして、そうは言ってもね、みたいにそれで忘れてしまったのだけど、
最近自分がウェブから受ける感覚がどうも変わってきて、
案外実現するんじゃないかと思えてきた。


ちょっと前に、池田信夫さんが、The Black Swanというエントリの中で、下記のように述べられていた。

ではBlack Swanを予測する理論はあるのだろうか? それは「予測不可能な現象」という定義によってありえない。複雑な世界には、すべてを説明する「大きな物語」はなく、個別の実証データにもとづく「小さな物語」を積み重ねるしかないのだ。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/526d3ac61acb6c7fa7f488064ca978a4


この池田さんのエントリ自体は、そこで紹介されているThe Black Swan共々、
多分経済学の文脈を分かっている人向けのもので、
私のような門外漢には、そのBlack Swanと名づけられた不確実性が、
なぜわざわざ名づけられねばならないのかあたりからして理解できなくて思考停止したんだけれど、
それはさておきこの、「大きな物語」と「小さな物語」という言葉が
引っかかった。


分野は違うけど、主義や思想も「大きな物語」だ(ポストモダンの人がいう狭義のやつじゃなくて、、)。
誰か頭のいい人が代表して(理論内では)矛盾のない思想を編み、
私達の大半はそれに啓蒙されるか、それを選択するだけの立場にある。
私は落ちこぼれの学生だったけど、それでも、
ああ、大抵のことは議論され尽くしていて、考えられ尽くしていて、
しかもどうも古代に行けば行くほどシンプルなのに深いということは痛感して、
ああこりゃもう私が思想してもしょうがないや私の思考なんて要らないやと思って
個人的な領域を出ないようにおとなしくものを考えるようになった。


そういう行為は誰かメタな視点を持った人から見たらことごとく、
「あああれ〜の○○主義でしょ?」とか「また○○論争か」とか
いう話になるなあと思いながら、それに対抗する唯一の言い訳として、
私が自己の問題として主観でもって思想することは、
未来の誰かがフィールドワークしてくれるときのサンプルケースになると
そういう意義があるんだい、と思っていた。


思っていながら正直、他人の書いたものに対しては、
同じ事を思ってしまうことは、実は多かった。
その思い、本2,3冊読んでさっさと止揚しちゃいなよ、みたいな。。
ディープなはてな村とか、増田とかは、
そこら辺は読んでも時間の無駄だと思ってた。
自分の思いが既に何百年も前に誰かに止揚されているように、
今の誰かの切実な思いもどこかの小説で既出なんだ。


そう思ってたんだけど、
id:finalventさんが前、熱いエントリエントリをあげてて、
あれ?と思った。

 クズの私は、がんばれ非モテと思う。増田よ語れと思う。あのバーカにしか見えない延々たる議論が本当の思想の活動だと信じるほど、俺はバカでありつづけるよ。クズでありつづけるね。

ネットの言論はクズ - finalventの日記

あれだけ教養ある人が、頭の中に何百もメタのパターンを想起出来るだろう人が、
ベタを思想だと言った。
よくわかんなくて逆に穿ってしまい、もうメタに飽きちゃったのかな?とか思った。


で、全然違った。
先日、それを分かりやすく説明してくれたエントリがあった。

 ブログのなかで生きている……それはネットの中に生きているというのではない……という感覚が一定数産まれるなかで、それが非知的に見えても、具体的な生活に根ざした思想という点でもっとも本来的な思想活動になりうる。思想とは現実の「私」の生きがたさからしか発しないし、それを発して受け取る人の運動(「私」を具体的に越えていくこと)のなかでしか生き生きと現れえない。

 むしろ知的とされている世界の側は、戦後の歴史を見てもわかるように、時代が過ぎ去れば跡形もないか、あるいは特定のイデオロギーから党派的にまとめられているにすぎない。

私が言うと誤解されるんだろうけど(リライト版) - finalventの日記


それでやっと意図が分かってコメントさせていただいたのだけれど、
それでもう一度説明してくれたのがすごく分かりやすかったのですみません全文引用します。
(だってエントリになってないのもったいなくて、、)

古いモデルだと、教える(知識人)⇔教わる(大衆)、ということで、啓蒙や思想運動というふうに、知識がそれ自体の価値性を持ち、そしてそれに資本主義のシステムが沿う形に見えた。しかし、実際には、大衆は世間知で生きていて、知識人との対応もその二極ではなかったりもしたわけです。で、その世間知というのは親族親兄弟とか地域とかそういう実際の個人を取り囲むある種威圧感のある範囲だったわけだけど、はてな村とか、増田村とか、こんなの参加する必要はないけど、ぼんやり見ていると、ああ、それってそうそう、ふーん、とか、その域を超えて、自分で考える、自分の考えを反照させるというプロセスが入る。というかそういうプロセスで、自分が他者に開かれたように思索・行動を始めるわけですよ。かつてはそれが選ばれた人のサロンみたいなものだったけど、今はそれなりに自分にあって選べるし、大衆性の次元に近い。あと、本当の問題って実は大衆性の側にある。「俺ってどうして非モテ」とか、以前の知の風土だと、「お前、バカだろ」とか言われちゃいそうな問題のようだけど、自分の人生に引きつければすげー重たいわけで、そういう重さを大切できるようになる。そしてそういう自分の課題を大切にした分だけ、自分は行き始めているんですよ。とか、説教臭いな。

2007-06-29 - finalventの日記

*1



”本当の問題って実は大衆性の側にある。”


思想の地動説だ。
もしかしてみんなには当たり前のことなのかもしれないけれど、
個人的にはこれはほんと、その名の通り、コペルニクス的転回だった。



・・あらゆる思想が大きな物語として存在する時、
個人的な問題というのは、直接的には解決されない。
もちろん考え方の枠組みを提供してくれるという意味で、
それによって生きるのがすごく楽になったりはするんだけれど、
じゃあその大きな物語をもらって、
さて自分の個人的な物語をそこにどう繋げていくか、という筋道が
きちんと個人の中に作られるかというと、
悲しいかなそんなことをしてる人、出来てる人はいない。
みんな矛盾の中で生きてる。矛盾しないようにすると自己欺瞞になったり。



個人のレベルの問題を、そのレベルにとどめおいてしっかり向き合う
という作業は、私が大学にいたときは、少なくとも「思想」には含まれていなかった。
もっと大きな物語の話だけだった。
だって個人の問題は、パラメーターが多すぎるし、
ケースバイケースすぎて、まとめられない。
もっとざっくり、抽象的に、一般化して、語られなければいけない。
そんなかんじ。


でもウェブという大容量の場が出来て、そこに
生々しい、生き生きとした個が、個のままで存在することが可能になった。
リソースを節約する必要がないから、
適当にまとめて類型化されたりして、元が消されてしまうということもない。
大きな物語を苦労して自分に当てはめる作業ではなく、
小さな物語が小さな物語と出会うことが可能になった。


その出会いは、すごいことではないか?



茂木さんはあっけらかんと、多様性という言い方をした。

 大抵の差異や対立は、実は
大したことではないと最近感じている。
 一見相容れないように見える
思想や考えのどちらかにとらわれて
しまうのではなくて、
常にそのさらに上から多様性と
して眺めてみたらどうだろう。


 ヘーゲルの言う弁証法とは
微妙に違う。
 アウフヘーベンするのではなく、
異なるものが対立したまま
そのままいる状態で良いのでは
ないかと思う。

茂木健一郎 クオリア日記: やはりこのような空気を

・・ヘーゲル(の弁証法)は個人的にはやっぱり好きなので、
それはそれとしてアリだと未だに思うけどでも、
そういうことも含めて、


ひとつにならなくていいよ


ということなのかもしれない。



それを前提として、それでもお互いに共感しあったり、罵倒しあったり、
そうやって熱く個を戦わすことが出来る。
それも思想やイデオロギーの場を借りずに。汚されずに。PtoPで。


ウェブに溢れる”クズ”は、
今まで大きな物語が作られるときに捨象されていた無数の個だ。
それが個のままで、干渉を受けずに存在できる今、
主義なんてわざわざ名前が付かないくらいに、本当に地に足を着けて、
個が個のままで思想することが可能になってる。
その意義は大きい。


他人を他人として、その人として「認める」ことでしか、自分の輪郭を作り得ない。
私達のアイデンティティはそんな構造になっているけれど、
大きな物語に飲み込まれることなく、
かといって独りよがりになることもなく、
普通に今、目の前にいる人を認められるような、
そいういう捉え方が、可能になってくるのかもしれない。
大きな物語の呪縛を逃れて。

*1:いや、説教くさくないです。