なぜ私たちにweb2.0が”認識”出来ないか
web2.0が極まったら(webXとかか?)貨幣なしでまたいけるかもしれないよね!
貨幣を間に噛ませるといつのまにか人間の目的が貨幣になっちゃうからさ!
このウェブの力を利用して需要と供給をダイレクトに繋ごうさ!
・・というのを色々このブログでも妄想してきたんだけど、
まあそれはそれとして、今は全くの貨幣経済。
なのでウェブも、つい”それで飯が食えるか””マネタイズ出来るか”とかって話になっちゃう。
リアル寄りの人にウェブの良さを伝えるときも
楽なのは、”お金になりますよ・・・・・いつか”って、
リアルのパラダイムに則って価値を説明してしまいがち。
しかし、あれだなあ。
向こう(リアル)と同じ土俵で勝負=リアル以上に貨幣を生み出すことを
ウェブの目標にすると全然なんか違っちゃうな。
こう、オープンソースの素晴らしさは最終的に金になるかどうかと関係ないというころが、
今ウェブでみんなが自分の知識や才能を惜しみなく提供したり無駄遣いしていることが、
説明できない。
(せいぜい、いつか金にしたいんでしょ?とか承認欲求満たしたいんでしょ?とかいうこちら側論理になってしまう)
なんていうのこの違和感。
つまり仏教の素晴らしさを”科学的にも正しいですよ”って言ってしまう感じ。
キリスト教の素晴らしさを”統計学的に人類に利益をもたらしていますよ”って言ってしまう感じ。
(たとえば)
それちがうよね。
科学と宗教は、認識の枠組み自体が全く異なってるわけですよ。
(だから矛盾はしない。そもそも同じ地平に並べられないで矛盾しようがないというか。)
つまり、そもそも信仰として何かが”分かる”事は、
今私たちが使っている認識の枠組みと全く違うパラダイムに自分が投げ込まれることだから、
それは”こちら側”の語彙ではどうしても説明できない。
ましてや”こちら側”の価値観ではその価値を伝えようがない。
もちろん、教典や行によって多少の概略は伝えられるけれど、
その人にとっての真の価値は、
もう直接的体験の衝撃や啓示によってしか伝わらない。
それと似てる感じ。
金を生むことがウェブの価値か。儲かるかどうかでウェブの優劣を測るのか?
世界の成り立ちを説明できる事が宗教の価値か。矛盾のなさで優劣を測るのか?
そうじゃないよね、、という。。
本人が、他人の物差しでもなく、値段のラベルでもなく、目に見える富でもなく、
なぜか”こちら側”の認識では説明できないけれど、
楽しくて、ドキドキして、わくわくして、優しくなれる、
何も介さないでガチで”生の価値”を感じられる。
そこがウェブの興奮だった気がする。
そしてそこが終着点でいい気がする。
やっぱなんかうまく言えないけど。
もちろんウェブはまだ長い長い過渡期をずっと過ごしていくから、
もっとインフラを整備し、世界中を繋いでいくその過程では
どうしても”こちら側”の価値観を使って
”価値”を示していかないといけない日々は続くけれど、
あくまでもそれは相手の土俵であって、
いつか、こちら側が知らないうちに、
貨幣の要らなかった私たちのあり方に
本来の生の価値を感じる能力がちゃんと働いている生き方に、
引きずり込んでやるよ、
といった気概を隠し持っていないとね。
いいんだよ今ちゃんと説明出来なくたって。
だって私たちの認識外の事が起こっているんだから。
たぶんね。