承認2.0
ウェブのおかげで、世界にはほんとに多種多様な人がいて、
みんな凡庸というけれど、1人として同じじゃないし、個性的だということを、やっと実感として知った。
今までは自分がリアルで見ている、小さな小さな世界のなかで、
人生を構築していたし、自分の一生を、まあそつなく、中庸で、人生にありがちなことは大抵経験して死ぬ、みたいな感じに見ていたけれど、
世界という大きな大きな人の塊のなかで、
その一人ひとりがみんな、平均値を取ったような生き方をしなくてもいいのだなと思った。
私がたとえどんなに偏っていようが、
世界のどこかには、私と正反対に振れている人が必ずいて、
それは天上から見れば、きっとバランスが取れている。
それでも、ウェブがなかったころは、自分が普通なのか、特殊なのか、
これでいいのか、いけないのか、そんなバランス取りは結局、
自分がリアルに触れる環境の中でやるしかなかったけれども、
今は、知ろうと思えば本当に大きな視野で自分の人生を測ることが出来る。
日本に1人だけのバカはバランスが悪いから片身が狭いけれども、
アメリカにも1人バカがいることが分かれば、
そこにお互いの役割と存在が認識される。
アメリカにもバカがいるんだから、日本にもいなくちゃいけない。
日本にもバカがいるなら、アメリカも対抗しないとね。
・・例えが変だったけど、そんな感じ。
小さな社会の価値観から見た、大事なことに没頭するのも、くだらないことに没頭するのも、
いいじゃない、自分がそれが本当に大切だと思うならば。
だって世界にはこれだけたくさんの人間がいる。
その中でバランスが取れてれば大丈夫。バランスはきっと取れている。
そんな気になる。
今までは分からなかった。
でも、ウェブがあれば、バランスが見える。
これからもっと、見えるようになる。
足りないものも分かる。必要なものもわかる。
みんなの役割が分かる。自分の意味もわかる。
観念じゃなくて、きっとリアルにわかる。
そのためには、
ねえ必要なのはなんだかわかるかな、
承認だよねきっと。お互いの。万人の、万人による。
ディスプレイの向こうの遠い何処かの国の偏った存在。
好きなものは好きで、苦手なことは全然だめな、
バランスの悪い、絶対的な存在。
私がそれを承認するなら、彼は世界の要素だ。
それと同時に、私も世界の要素となる。
好きなことをやっていいんだよと応援されて喜んだディスプレイの前の誰かは、
私の人生と違うことをする。
私がやらない世界の一部分を埋める。
私が彼の偏りを承認したからだ。偏った在り方が役割であると、意味を与えたからだ。
その承認は、きっと私を救う。
私が偏ることを助ける。
私が好きに生きることを助ける。
他人を承認すれば、自分の居場所が出来る。
そんな簡単なことを、簡単にやれる時代を、本当の世界の大きさでやれる時代を、
私達は生きられるようになったんだなあと、改めて思う。
私は、ウェブはポジティブに使うし、使われていくと思う。
だってそれがきっと私達の小さな、それでいて切実な生を、
今度こそ本当に、救うからだ。