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欠乏の存在理由

幸せに育った人は、小さな、何気ない幸せに満足できる。
きちんと、無条件に、無根拠に、絶対的な存在の承認をもらって、
小さい頃から、「足る」の受容体が育つように、育っているので、
他の人と比べたりする前に、世間なんていう評価を待つ前に、
自分にとって何が足るかを知っているし、きちんと発達した受容体が、それをきちんと捕まえて、
きちんと受け取って、満足して、生きられる。


「幸せ」とか、「足る」とかの受容体を、育てる機会を授からなかった人は、
他の人の表明や、世間という評価でしか知らなかった人は、
いつも、これじゃないし、いつも、あれじゃないし、いつも、それでもないと、
たくさんの、「受け取れない」日々を、うんざりするほど重ねて、
人よりもたくさん諦めてみたり、人よりもたくさん求めてみたりして、
受け取る行為に使われなかったその、
ものすごい、欠乏のエネルギーを、希求のエネルギーを、やり場なくもてあましたり、他の事にぶつけたり、
「ほんとうの」世界からどんどん、遠ざかっていく。
受容しないままに。見せかけの「成功」を「幸せ」と勘違いしたままに。


後者の人は、不幸だ。不幸だけれど、
時に、たった一つの他人の行為が、その人の人生を覆す。
それを、理解、という。
その人の不幸の、その人の悲しみの、それでも自分なりに頑張ったその人の人格の、
うわべじゃない、本当の理解。


と、いう、ものに出会えたら、
その人は幸せだ。もし、それに巡り合えたなら。
前者の、最初から存在を承認されていた人と比べ物にならないくらいの。


生きる意味に、その存在の全てに値するくらいに。


そしてそれは、用意されてると思うんだ。
求めればきっと。立ち返ればきっと。
あがけばきっと。
無根拠ですけど。



世界ってさあ、足るを知っている人たちと、
わからずあがいてる人たちで本当は2つに分かれてるような気がするよ。
次元が。
知ってるのに余計なことを求めたり、
知らないのに知ったように自分を納得させたり、
ちょっと境界は混乱してるけど、でもその実絶望的に断絶してんの。


自分はうーん。どっちだろう。