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受容のロジック

あんまりアクティブじゃない一人っ子の娯楽というのは、
本が手っ取り早いので、子供の頃は読書好きだった。
(今は情報摂取を目的とした読書以外がほとんどなくなって、寂しい限り。)


親からは結構な勢いで放置されて育った、というか、
世の中とはこういうものだ、という概念や価値観を
全く語ることのない性質の人達なので(彼らにあるのは、田舎のある階層特有のやさしい諦念と受容)、
結果、世の中の認知方法を本からの知識に頼ることになった。


基本的には推理小説とか、娯楽本を読んでるだけだったけど、
たまに、何か受け入れがたい現実があるときは、
私がそれを受け入れるロジックを知らないだけだ、そしてそれはどこかにすでにある、
という理由で本を漁って読んだ。


現実はいつも、肯定も否定もなくすでに事実として存在する。
それを否定しても現実が消えるわけではない。
なので肯定して次に行く。次の自分に。
肯定が出来ないのなら、肯定する方法を探す。
そしてその方法は必ず何種類もあるので、
その中から感じ悪くないものを選んで自らの価値観とする。


つまり、根本的には、両親の「まず受容」みたいな、
基本スタンスが自分の中にも根付いていたということだ。
まあ、うちの両親はロジックがあまり要らず、
「そういうものだ」で済ませられるところがあって、
自分にはその寛容さがなかったので本とかがないとダメだったのだけど。


基本的に私の人生はこの繰り返しな気がする。
まず、「現実をまず肯定しないことには始まらない」という前提があり、
出来ないのならその方法を身につけるのが人生だと。
余力があれば現実を変えるように努力もする。


で、他の人もそうだと思っていた。
でもそうでもないかもと、結構最近知った。
他人の認知方法はいまいち把握できないのでどう違うのかわからないけれど、
受容するロジックを心の中に育てない場合もあるようだ。
もちろん、受容ばっかりで抗わない人生もどうかと思うけれど、
受容を学習しない場合、結構心は幼いままじゃないか?


私と違って、親や周りの人がきちんとした受容や寛容のロジックを持っていて、
それを言葉なり態度なりで示して教えてくれるとか、
信仰を持っているとかならいいけど、
そうじゃなくて、本も読まなかった場合、
その人の中に現実を受容するロジックが数パターンしかなかったり
することはないだろうか。
で、それが使えなかったら現実を拒否・・とか、相手が全部悪い、とか、キレるとか。


何を今更、と思われるかもしれないけれど、
最近ちょっと心に引っかかったのでメモ。


ていうか、私みたいに本でどうにか感情制御の方法を得るっていうのもゆがんでて、
昔は社会全体が(田舎とかは特にそうかな)受容というのを、
常識として持ってたんかもしれないね。
それがうちの親までは伝わっていて(だからロジックを聞いてもそういうもんだ、としか言わない)、
私まではそれだけじゃ伝わらなかった、と。
(だから私にはロジック(理由)が必要になってしまった。)



これから先の世代はどうなるんだろう。
私は次の世代に、受容をどうやって伝えるんだろうか。