”我”の対照勘定
世界はこうなっている、という素朴な物語、
世界はこう統べられている、という信仰
世界はこうあるべきだ、という思想
そういったものたちが無根拠であるとか科学的でないとか、
論理的に矛盾しているとか、
そういうことに自覚的である、そういう批判が出来ることが現代的な知性である、
ということだけれども、
人間、そういうものをすべて取り去って
大量の不可知を、不可知のままで保留したまま
それが知に対して最も誠実な態度だかなんだかしらないけれど、
そうやって、
でも生きていけるものではない。
確かに疑いは必要な防御だ。私たちは知性を備えて罠に気をつけて生きないといけない。
日常の仔細なことに対しては、常にそう。
お金、食品、取引、人間関係etc.
だけど、そういう些細な、騙す騙されるのレベルじゃなくて、
もっと大きな、その人にとっての生や存在に関しての物語は、ちょっと違う。
そこに必要なのは、信じる能力だ。
ぶっちゃけなんでもいいと思う。「私」をなんとか、「善く」「生かす」ものなら。
それなりに自立して、自己完結して生きていけるものなら。
生きるということは、
他人が信じられないとか世の中が信じられないとか自分が信じられないとか
そういうことからいかに逃れるかの戦いだ。
どうしたら信じられるか、と人は問うけれど、
どうするもなにも、答えは「信じる」それしかない。
根拠とかいうレベルではない。
信じるか死ぬか。
・・要するに、あなたの存在がまずもってどう考えても「トンデモ」であるわけで、
古来人はその対概念として何らかのトンデモを創り出しそれを「信じる」という方法によって、
対照的に”自らの存在というトンデモ”を狂わずに受容していたんじゃないですかねぇ。
我信じる、ゆえに我ありですよ。
それ以外どうやって生きろっていうの。
あなたの生きる意味には根拠が無い? So what?
そもそもわたしの存在に根拠はありますか?
物語とあなた、どちらが貸方でどちらが借方かわかりますか?
そしてだれがそれを仕訳しているかも知ってると?
これ以上落ちる人増産してもしょうがないじゃんねゲンダイシャカイ。
知識が人を殺すなら妄想が人を生かすほうが幸せってこともあるよ。
そういう知恵も、捨てないでいたほうがいいよねぇ絶対。
ぐだぐだ。