ハレの日と、日常の運用について
そういえば最近ブログ書いてなかったな。またブログ書くように戻そう。
ちょっとデザインも最初のはてなっぽく戻しました。よろしくお願いします。
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そろそろゴールデンウィークの旅行計画とか、
そんな陽気な話を聞くことが多い。最近。
春だ。
季節の行事や、休日の行楽などのハレの日をアクセントに
そのほかの日常を、地道に、淡々と過ごす。
私は(都会よりハレとケがはっきりしてる田舎に住んでいるにもかかわらず)
そういう切り替えと繰り返しがちょっと苦手で、
ハレの日がハレであるほど(それはもちろんすごく楽しいんだけど)、
日常の何かを、それで何か月分かごまかしているような、
そういう一抹の空虚感をどうしてもぬぐえないところがある。
どんなに盛り上がっても、
「それは、本質的か。」と心の一ミリくらいが問いかけている。気がする。
本質的って何、といわれてもわからないんだけど。
まあきっと「そんなことしてる場合か」的な罪悪感かもしれない。
人生の何かをごまかし続けているのに、とか。
それは、物心ついた時からずっとそうで、
自分でも変なもんだなあと思っていたけれど、
でもまあみんなそうなのかな?
そこはみんなあえてスルーして楽しむことに徹してるのかな。
その辺、どうなんだろうね。
まあ酒が入ってしまえばその辺はまったくもってどうでもいいんですが。
あと貧乏性なので、踊らにゃ損、というか、
もちろん楽しめるものは何でも全力で楽しんできましたが。。
でもね。なんかある。
なんだろ、問題は「ハレ」のほうじゃないのかも。
日常のほうがまったく本質的でないのが問題なのかも。
うむ。
祭りの前が一番楽しくて、祭りが終わった後はむなしい。
そうじゃない日常が、日常それだけで充実しているという世界がどこかにあるんじゃないか、とかね。
そんな夢を見ているのかしら。
時間の捉え方は、とても身体的なものだけれど、
身体が狂っているから、時間も乗りこなせていないとか。
あるいはそういうのだろうか。
なんて、こちらでやっと咲き始めた梅なんかを眺めながら
ゆらゆらと考えていたんですが昼間。
そのゆらゆらしている今自体つまり、私の日常の本質なのだなあと思いつつ。
それ以上のものはないことは分かっていつつ。
それでね、じゃあ「お前が心から満足した本質的なハレはなんだったか」
と考えてみたわけですよ。
試しに。
そしたら「温泉卓球」だった。全力で。
なんかもっと客観的に見て価値のあるものがたくさんある気がするけど
それは全然上がってこず、温泉卓球が頂点に輝いた。
すごいよね。それが私の人生の本質的文脈一番合致したハレであると。
(下手すると)このために生きてる!くらいなものであると。
と、いうとじゃあその文脈(=日常)は何か?
ということになる。
ええー。
余計に日常を見失いそうなこのごろです。
内山節さんが、下記の本の中で、
田舎の季節の繰り返しに沿って循環する時間(感覚)と都市の時間を対比してらっしゃったけど、
(検索したら自分の書評がヒットしてしまったので一応参考まで⇒本とか。物とか。 | 時間についての十二章)
- 作者: 内山節
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1993/10/27
- メディア: 単行本
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こういうことを考えてること自体、
私は田舎の時間軸で生活しているんでしょうね。
まあ都市は都市で、目の前の消費に追われて
景気という、四季より若干スパンが長くて不定期なものに
時間間隔が調整されているだけかもしれませんけどね。
何言いたいかわかんない文でごめんなさい。
なんとなく気分を記しておこうと思った。
きっとそのうち、田舎の時間、都市の時間、ネットの時間
の3岐くらいにはなる気がするんだ。
このままどうやっていって
今まで生きてきたぶん またやっていくの?
SOMETHING 'BOUT THE KISS