死に関する問いについて、過去の焼き直し。
「殺される」ということは行為ではないから、
理由は「殺す」ほうにある。
「いじめられる」ことが行為ではないから、
原因が「いじめる」ほうにしかないのと一緒。
哲学は普遍を求めるけれど、
それでいて個々人の住む言語や文化を離れては
存在し得ない。
空気のように当然で、無自覚なことは
公理としてすらも認識しないから、
当然、その上から思考が始まる。
すべてを疑ったデカルトだって、神を排除するなんて考えはなかった。
平和なこの地で私達は、次のように問いを立てる。
「なぜ死ななければならなかったか。」
生きているのが当然のこの地で、理由がいるのは死だ。
それは当然のように見える。
でも、世界的に見れば、きっと特殊な問いだ。
昔テレビで見た、内戦が続き、明日自分の命があるかわからない地で、
小さな少女は、今日自分が死ななかったことを感謝していた。
友達が毎日死んでいく中で、自分が今日まで生きていた奇跡に。
これだけ死を恐れている私達の社会で、
依然、「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いが存在する。
日本語のずるさを最大限に利用した、
主語のない問い。
人は、いや自分は殺されてはいけないはずだ。反対の人はいるだろうか?
他人の理由によって自分の生が終了していい理由がない。
なのに、そちら側に立たない。
「なぜ人を殺してはいけないの?」
それに本当の答えがあるとすれば、たとえば子供が、
お母さんからこう聞き返された時、心におのずと浮かぶ思い、
そこにこそ「真理」があるはずだ。
「じゃあなぜあなたは、私に殺されちゃいけないの?」
それすらも平然と乗り越えていく
大人がいる社会なのは、
いまいちよくわからない。
でも、自分が殺されちゃいけない、その思いを強く持てない何かが、
自分の価値が軽く扱われたり、軽いと思い込んでいるような何かがあれば、
その人が、人を殺さない理由も、軽くなってしまうのではないか。
そういうことを恐れている。最近。限定的な、平和な日々の中で。