旧 はてブついでに覚書。

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怒りの伝達回路

人が自分に向けて怒ったことを形容して、
「怒られた」という場合と、「怒っていた」という場合がある。


前者は自分が怒らせたと感じている、というか、
怒りますよねーそれは、と納得、というか共感できる時。
後者はたとえば相手が相手の都合で思い通りに行かなくて怒っている、とか、
あーそれはあなたの問題ですよねー、という時。


怒るときはひたすら動機を探す。その人の。
悔しいのか、悲しいのか、嫉妬なのか、抑圧したものを刺激されたのか、
狭量なのか、頭が固いのか、勘違いしているのか、誤解しているのか、嘘を隠しているのか、
拗ねているのか、他人を利用しようとしていた計画が崩れたのか、
キレているのか、どん引きしたのか、納得いかないのか、理解できないのか、
愛しているのか、そして、
本当に、怒っているのか。


怒るというのは素の性格に基づいた脊髄反射も多いけど、
第一次感情を隠蔽した、二次的な行動な場合も多い。


本当の意味で、
目の前の人の怒るという行為と、
自分が怒られるという状態が、
認識することと存在することが同義であると同じくらいに、
いつだって同じ事象を共有していたのは、
いつごろまでだろうか。
何も疑わず、素直に怒られるという行為を引き受けていられたのは。
たまに考える。


たいていの人の怒りは、その人のものだ。
その人はその怒りの矛先のせいで怒っていると思っていても、
同じ事象で怒らない人もいるように、
動機はその人の中にある。


その怒りが相手に「届く」というのは
すごいことだな。
おイタをした犬が飼い主を見上げるように、
「怒る」と「怒られる」の、文脈の回路を共有する。
プロトコルを共有しているのかな。
場においての善悪を共有しているのかな。


怒りの動機づけは、そうか、つまり、価値観だ。


世界の人も、日本の人もお互いに怒りあっているけれど、
怒りが、すれ違い続けて、満たされないのは、
辛いなあ。
価値観の共有ができていれば、怒りは伝わる。
なければ伝わらない。


では怒りで同時に価値観を伝えることはできるか?
価値観を説明しながら、動機を説明しながら怒ることは。


器用な人は結構やっているか。
自分もできればそうありたい。
相手へのリスペクトと、怒りは別に、
両立しないわけじゃないよね。