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都会の時間・田舎の時間、男の時間・女の時間、そしてリアルの時間・ネットの時間

『時間についての十二章』という本で、著者の内山節さん(哲学者)が、
季節が巡り、同じ仕事が姿を少しずつ変えながら循環していく農村の時間と、
時計に管理され、直線的に進んでいく近代的な労働の時間を対比している。

時間についての十二章―哲学における時間の問題

時間についての十二章―哲学における時間の問題

(昔の自分のblogですが言い足りてない感じの内容紹介⇒時間についての十二章 | 本とか。物とか。


今より明日がよくて、過去より未来がきっと素晴らしくて、努力すれば実って、
そういう高度成長期的な熱狂から覚めて久しい私たち、
でも今は自己責任、自己成長、自己啓発
結局やってることは同じ、今に目をつぶって明日を夢見てる、
そんな私たちが本当に疎外されてるのは何か、そういうことを考えさせられる話。
都市や農村のいろいろな人の「仕事」観を通して、
その人が感じる充実や価値、そしてそれぞれの人の持つ寂しさが提示されている。


典型的な対比を、第二章「山里の時間」から引用。
時計に従い、過去から未来へと不可逆に進む「縦軸の時間」、
山里に暮らす人々はもう一つ、季節とともに循環し蓄積していく「横軸の時間」を持っている。
近代的な価値観の中で多くの若者は都市に出ていく。
でも少数、山里に留まる人がいる。

 それでも少数の青年たちは、いま村に帰ってきている。いまでは長男は家に残れと言う親もいないから、帰村したのは誰もが都市よりも村の暮らしのほうが好きな青年たちである。
  (中略)
 それでも村に帰った青年たちは、ときどき、取り残されたような淋しさを感じるときがあるという。伝統的な労働の系を受け入れるかぎり、彼は二十歳のときも、三十歳のときも、そして八十歳になっても、基本的には同じ仕事を繰り返しているのである。もちろんその間には、畑で栽培される作物の種類も変わるだろう、農作業の方法も変化し、農民としての腕も高まっていくだろう。しかし基本はあくまで、回帰してくる季節のなかで、その季節が求める仕事を繰り返していくところにあるのである。
  (中略)
 都市で就職した同窓生たちは毎年少しずつ縦軸をのぼっていくのに、自分は毎年同じ春を迎える。そのことが、山里の暮らしの好きな青年にさえ重圧を与えつづける。
 それは山村の過疎化を促進した重要な要素であった。縦軸の時間世界を中心にして社会が形成されている以上、円環の時間に身をおくことは停滞を意味するように感じられる。 

でもその淋しさや重圧が、ある時を境に逆転する。

 村の青年たちとそんな話をしていると、私は東北の農村で暮らしているある農民の話を思いだす。すでに六十歳をこえた彼は、長男として家を継いだ一昔前の専業の農民である。その彼も同窓会は憂鬱だったという。役職につく者がでてくる。その人たちが全体をリードするようになる。その頃の同窓会は、一年一年仕事量も「仕事の責任」も重くなっていく人々が勢いをもっていて、明日は今日以上の日が待っているというふうな雰囲気が支配していた。そして基本的に毎年同じ仕事をしている農民は、そんなふうに未来を語ることができずに、会話からも置き去りにされていた。
 「ところが」、とその農民は言った。「六十歳を過ぎたらコロッと雰囲気が変わったのは不思議だった。」縦軸の時間世界で働いていた人々が元気を失なってきて、農民はときに彼らから羨望の目でみられるようになってきた。客観的な縦軸の時間と関係を結んできた人々が、労働の世界のなかで、その関係を断ち切られはじめた。縦軸の時間世界がみせはじめたもろさ、時間が人間を使い捨てた。そのとき永遠に回帰する農民の時空のほうが、永遠性をみせていた。

だからといって最初から農村にいるほうが”勝ち組”、というわけでもない。

 村に帰ってきた青年たちは、縦軸の時間によって形成された人間の存在の脆さを感じとった人々である。だから彼らは、横軸の時間とともに展開する永遠の存在を選択した。だがそれは、この社会のつくりだした重圧を感じながらでもあった。


中途半端な田舎に育った私には、よくわかる対比。
そして女である私にもよくわかる対比。


今、六十代以上で、元気なのは女性だ。
高度経済成長期で、上と先だけを見て会社に奉公してきた男性、
プロジェクトXみたいな彼らの「自己実現」を尻目に、
家庭を支え、毎日同じ家事を繰り返し、子供の学校、地域の年中行事、そういった循環する時間の中で「社会」と切り離されて生きてきた昭和の女性。
そして会社の定年を迎え、肩書が外れ役目終了、有り余る時間、全くない社会との繋がりを前に何をしていいかわからない旦那さん、
子供が手を離れ、親と孫の世話にちょっと手がかかるものの、自分の人生、趣味に友達にと、循環する季節を目いっぱい楽しんでいる奥さん。


都市の時間と農村の時間の対比にそっくりだ。


どっちがいいとも悪いとも言えない。
前、六十五くらいの男性が、定年迎えた次の日に死にたいねなんて(家庭のことを全く顧みもしていないのか奥さんに嫌われでもしていて配慮しているのかわからないけど)言っていて大変に驚いたけれど、
仕事だけやって燃え尽きて終わっちゃえ、そいういう価値観もあるだろう。
世界中の人があこがれた美しい庭と生活を維持したターシャ・テューダーさんのように、移ろう季節をスローライフで楽しむのももちろん素敵だ。



私は最近もうひとつ、似たような時間の対比があると感じる。
リアルの時間と、ネットの時間だ。
リアルは基本、今しか捕まえられない。今はどんどん目の前から消え去り、新しい何かがやってくる。
私たちは常に今に対応せねばならず、記憶と、そして未来への想像の中で生きる。


ネットは記録の時間だ。データベース。ひたすらに蓄積される。
佐々木俊尚 さんが『電子書籍の衝撃』という本で、エピソードとともにコンテンツの無時間化を解説している。

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

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アンビエント」という言葉があります。「環境」とか「偏在」と訳されたりしますが、私たちを取り巻いて、あたり一面にただよっているような状態のことです。
 (中略)
ブライアン・イーノというイギリスのミュージシャンがいます。かつてロキシー・ミュージックという伝説的なグループに所属し、その後はデヴィッド・ボウイU2の音楽プロデューサーとしても名を馳せたり、多彩な活動を行っている記載ですが、彼が最近のインタビューで非常に面白いことを言っています。

「もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった。」*1
 (中略)
 アンビエント化によって、音楽を聴くという私たちの体験はどう変わっていくのでしょうか。イーノは先ほどのインタビューでこんな話を紹介しています。
「私の娘たちはそれぞれ、5万枚のアルバムを持っている。ドゥーワップから始まったすべてのポップミュージック期のアルバムだ。それでも、彼女たちは何が現在のもので何が昔のものなのかよく知らないんだ。
 たとえば、数日前の夜、彼女たちがプログレッシブ・ロックかなにかを聴いていて、私が『おや、これが出たときは皆、すごくつまらないと言っていたことを思い出したよ』というと、彼女は『え?じゃあこれって古いの?』と言ったんだ(笑)。
 彼女やあの世代の多くの人にとっては、すべてが現在に属していて、”リバイバル”というのは同じ意味ではないんだ」
 (中略)
 1960年代の古いロックからゼロ年代の新しいポップミュージックまでが同じ地平線の上に見えていて、その並び順は、「自分が気持ちよいと感じるかどうか」「友人が『この曲凄いよ』と紹介してくれた」といった文脈の中に存在しています。
 そこには、「昔の音楽は昔の音楽として聴く」「新しい音楽だからとりあえず聴いておこう」といった従来の文脈は意味をなくしてしまっています。
 つまりここで起きているのは、新譜やミリオンセラー、ランキングを中心としたマスメディア的な音楽視聴スタイルは徐々に衰退し、「いつでも自分の好きな音楽を好きなように聴く」という方向へとアンビエント化が進んでいるということなのです。

デジタルだとコンテンツの場所に制限がないから、新しいものが出るために古いものの場所が削られるリアルと違い、過去と現在が同じ土俵に居られる。
コンテンツはどれも過去の模倣やリスペクトが入ってるから別に時系列で消費しても面白いと思うけど、
価値としては「新しい」「古い」というのはそう大きな変数ではなくなってきている。


リアルだけだった時、過去というのは歴史とか経過とか、「過去を重視する思想」を持たないと
あえて触れないものであったけれど、
ネット上で「コンテンツ」として扱えるものであればそれは、
時間にさらされて消えるものではなくなった。
Twitterやブログで私たちは「今」を蓄積しているけれど、
私にとっては遠い過去の投稿も、コンテンツとしてはトップページから同じクリック数だ。


どっちがいい悪いは、ここでもない。
ただ、どちらかの時間の中にいてキツくなった時、
今はオルタナティブがある。
ネットには今、多様な「今」が、可視化されている。
そしてそれが積み重なり、多層な「今」となる。
過去が、今のままで存在し、価値を失わない。
歴史は繰り返す。誰かの10年前の「今」が、今の私を助ける。


時間の感じ方というのは多分、自己の投影だから、人の数だけあるのかもしれない。
たとえば私は家事の中で、洗濯や掃除、食器の片付けは面倒くさくないというか、何も感じずにやるのだけれど、
料理をしている間だけは暇で暇でしょうがない。どんなに手が動いていても頭が暇。テレビやラジオでも付けておかないとやれない。本当は本でも読みながら料理をしたい。
仕事もできればラジオか音楽くらいは聴きながらやりたい。どんなに頭や手を動かして忙しくても、どこかで「暇」だと感じる自分が居る。


という話をしたらゲーム屋の夫が一言、「感情が動いてないからだよ」と言った。


なるほど感情が動いていると「充実」を感じるのかもしれない。
感情は好き嫌い以前の何か。正直なんだろうね。
直線の時間にいようが循環の時間にいようが、そこで感情が動いてなければ、
空虚なのはいっしょなのかもしれない。
客観的に見て成長しているとか儲かっているとか、
そういうもの以前の自分の心の運動。
それこそが私たちが捉える「時間」なのかもしれない。


インターネットの出現によって私は、少し時間の捉え方が変わった。
世界の広さを知り、人の多様さを知った。
自分の狭い知識の中の時間なんて、本当に切り取られた、不十分な何かだ。
一つしかないと信じていた「今」でさえ、なんと多くの表情を持つのか。
誰もが好きに時間を捉えてる。
そして捕らえられてる。
自分の時間は、つまり自分の感情は、単なるone of them だ。
取るに足らない、だからこそ自由で、かけがえのない。


混沌の時代ではあると思う。未来に希望とか、そういうことは思わない。
足元の循環する時間を、私の停滞する人生を感じながら、
それでも好きに感じていいんだなと、私の中で時間の感覚が楽しく暴れている。


あなたの感情は、あなたの時間は、今どんなふうに動いていますか。

*1:ブライアン・イーノ特別インタビュー』Time Out Tokyoよりと注記