言わない人たち(意見と誤答2.0)
社会学的にどういう名前が付いているのか知らないのだけれど、
ある組織内の弱者と位置づけられる人たちが、体制側の論理を身につけて、または内面化して、自分を納得させることがある。
ひどい待遇で働いている非雇用者が、経営側から自分を見て、
コストを抑えるためには自分の時給換算の給料がこのへんに抑えられなければならないと納得している、とか
正社員の半分も生活の保証も手当もないバイトの人が、その人の生活を慮りもしないその組織の成果物の品質向上に邁進するとか
金を作り出す手段のない人が、そういう人を安く使って成り上がった成功者を礼賛したりとか。
本当は、「私は大変だ。虐げられている。搾取されている。寄越せ!」
と言っていいような人たちが、言わずに、体制側の理論を自分にインストールしてしまう。
これは一つには、クラスチェンジへの布石として行っているように見える。
資本主義社会において雇われである限り、ストをしようが組合を作ろうが自分の自由には限界がある。
そんなことより体制側の理論を学んでうまく立ち回り、
早くそちら側(つまり、システムの側)にクラスチェンジしよう、としている場合。
しかし、そうでもない場合もある。
単に、クレクレいうのが、恥ずかしいと思っている場合。
体制側にバカにされたくないと思っている場合。
自分がこれ以上を望むことは、身の程知らずであるに違いないと思っている場合。
世の中を知らないと思われたくないと思っている場合。
etc.
意見、というのは自分の視野や知識、及び経験、そして立場に左右される。
そして、一人の人が全ての意見と全ての立場を持つことは出来ない。
故に、誰の意見も少なからずポジショントークであり、偏っている。
そして、基本的に、世の中はそれでいい。
どんなに「観測範囲」を広げても、一人の人間が全ての見識を網羅することは出来ない。一つの分野ですら、一生かかっても不完全だ。
全ての見識を網羅してから、勉強してからなんて言っていたら、
一生かかって一言も発言出来ない。
一人で100識っている人を作れないかわりに、
偏った異なる意見を持つ人が100人集まる。
そしてその議論の妥協点を見つけ、論理的整合性を整理する人がもう100人。
そうやって、議論を重ね、世の中で物事が決まる。
個々人は自分の視野で、自分の立場で、自分の経験で自分の意見を訴える。
反論は他の人が出してくれる。
否定も他の人がしてくれる。
対案も他の人が提案してくれる。
だからこそ安心して、「今の」自分が思う全てを言う。
そして感謝して、反論や否定により意見を修正する。
ウェブによって、そういった仕組みがもっと整理されるはずだった。
と、私は思った。
しかし、今どちらかというと行われているのは、
100人の偏った意見の人達による冷静な議論などではなく、
誰が一番視野が広いか、誰が一番経験をしているか、誰が一番海外の例を知っているか、誰が一番数字を知っているか、誰が一番経済を知っているかetc.競争だ。
意見は議論されない。揉まれない。止揚されない。
最初から思慮深いものであることが求められる。
軽はずみに発言するとバカだと思われる。
自分で浅薄な発言と分かるものについてバカにする。
そしてみんな口をつぐむ。
議論は否定されない。
そのかわり、その人の人格が否定される。属性が否定される。立場が否定される。
お前は所詮視野が狭いからそのようなことが言えるのだ、と。
そう言われるのを恐れる人たちはいつしか、
一番の権力者(バカに出来る側)である、体制側の意見になる。
例えば放射能汚染について。
成人男性・子供を産む気のない成人女性と、将来可能性を考えている女性・妊婦・小さいお子さんを持つ男女だと
恐れる範囲が全く違う。
前者の人たちは社会的視野で余裕を持って眺める事ができるので、
冷静に効率を考えてパニックを引いて眺める。
後者の人たちは自分事であり、かけがえのないわが子の未来のことであるので、社会的にどうかではなく、自分の人生としてどうかと真剣に悩む。
体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。
例えば原発の是非。
主に経済系の人や企業に勤めている人たちは自分の置かれている経済情勢を鑑み、
昨年までの経済活動を継続し、日本から企業を撤退させないためにも、
すぐに停止することは考えられないと思う。
片や主婦であったり学生であったりする人たちは福島第一原発で起きた惨状を見て
ここ何十年かの繁栄の為にその先百年が犠牲になる可能性を恐れ、
まずは停止してどうにか代替案がないか模索していくべきだと思う。
体制側に近いのは前者なので、基本、前者が後者をバカにする形を取る。
そんな人達の周りで多くの人が口をつぐむ。
ひたすら情報を貯めこみ、視野を収集し、脳内で計算を続ける。
「何が正しいのか」
それが出るまで。
バカにされない意見が言えるようになるまで。
PLUTO (1) (ビッグコミックス)というマンガの中で、
アトムは一度、起きなくなってしまう。
機能は問題なく、あらゆる情報を持っているのに、目覚めない。
脳が無限のシミュレーション状態になり目覚めなくなってしまったのだ。
目覚めを決めたのは、
ある偏った感情の注入だった。
ウェブによって、人はより、偏っていていい存在になったと思う。
そして、より、好きなことだけしていていい存在になったと思う。
誰かが出来ないことは他の誰かが出来るということが、見える世界が始まった。
だけれどそうである世界は、自分のあり方も変えていかなければならない。
自分が淘汰される存在であること。自分が止揚される存在であること。
ある分野ではその体制の上の方にいたとしても、
他のあらゆる分野ではあらゆる否定を受ける側の人間であること。
それは存在の否定では全くないこと、むしろその分野の糧となっていくこと。
そうやって助け合い、教えあいながら生きて行けること。
私は最近のウェブが好きだ。
罵倒、デマ、不安、感謝。
震災によって、人の素が前より少し見えるようになった。
みんなが自分を少し、出すようになった。
人としての不完全さを恐れなくなった。
その芽を、バカにすることで摘んでしまわないように
存在を肯定し、意見を出すことをリスペクトし、
その上で、お互いに礼儀を持って、
議論を本気で戦わせることができたら、素敵だと思う。