お金は鏡、と思いたい。
神様が完璧な采配で
ものや労働の"価値"を一元的に決めてくれたなら
それを参考に、みんな物々交換すればいいので、
お金は要らないわけだけど、
google様はそういう道は選ばずに、
「それってみんなで決めてよね。決める仕組みはタダで用意するから。」
と仰るので、
私たちは、久々に、
"モノ自体*1"と自分の価値観を、直で対峙させるはめになった。
それは、遺伝子の奥のほうできっと覚えてる、
お金が生まれる前の、
お金という緩衝材が現れる前の、
お金という仕組みを介してぼやかすようになる前の、
自分が、自分の価値観が、モノ自体と生で対面していたころの、
・・・懐かしい記憶。
それは、目の前の存在の価値を決めることによって自らの価値が試される、
心地よい怖れ。
私たちが通常よりどころにしている"価値"は2つある。
ひとつは、自分が良いと思うかどうか、という価値、
もうひとつは、他人が良いと思うかどうか、という価値。
私たちがお金を出して買うもの、持ちたいと望むものはだいたい、
"自分が欲しい"のか、"他人が欲しいものが欲しい"のか、
のどちらかだ。
後者はあまりないと思う人もいるかもしれないけれど、
服、宝石、家、車、骨董、海外旅行、、
"他人にうらやましがられる自分"、"社会的に認められる自分"を想像しながら
買うものは結構多い。
というか、最近は後者へのシフトが強い気がする。
みんなものの買い方が、投資っぽくなってる感じ。
自分がその企業を応援したいから買う、なんて悠長なことを言える人はあまりいなくて、
基本的には、他人がどの企業をいつ買いそうか、というのが基準になってる。
まあ株はそういう性格のものなのかもしれないけど、
普通にモノを手に入れる時も、なんか同じような思考が働いてしまう。
これって流行ってる?これもってたらいけてる?
自分が欲しいと思うのは、自分とモノとの直接的な関係だけれど、
他人が欲しいものを欲しい場合は、視点が一次元上になる。
その分だけ自分がモノ自体と遠ざかっているので、
ちょっと我に返ると、
「あれ?私なんでこれ欲しかったんだっけ?」となったりする。
我に返ることは大事で、
自分が(直接的には)要らないものを求めていたことに気づくと、
がむしゃらに働いて自分の時間がなくなって手にしたお金で買いたいものは、
貧乏で暇だけはあったあのころに持っていたもの、
なんて、どっかのたとえ話にあるような悲しいストーリーを回避できる。
もう十分自分がモノを手にしていて、
結構満足で、すでにかなり幸せであることに気づく。
閑話休題。
web2.0の登場でみんなが不安になったのは、
そこにお金がなかったから。
「みんなで価値をきめなよ。それぞれにさ。」って
言われてしまったから。
今まで、「他人が欲しいモノは何か?」という視点ばっかりで
自分の価値観を決めてきてしまった人は、
特に不安がる。
「自分が欲しいモノが何か?」分からないからだ。
しかし、「他人が欲しいモノが何か?」は、
お金を介したときにだけ意味がある。
お金に価値を換算することで、他人と比べる行為だからだ。
そういう思考に慣れてしまった人たちは、
web2.0が最後にお金に還元されないのを見て、もどかしい。
「それに何の"価値"があるの?」
しかし彼らが求めているのは"価値"ではなく、"価格"だ。
彼らは「それが何の金になるのか」決定されるまでは
自分の価値判断を停止している。
訝しがりながら、恐れながら。
彼らの不安は、きっと消えないだろう。
目の前のものが、お金を介さずにそのまま自分にとって価値がある、
というのが本当の"価値"であったことを思い出すまで。
お金が基準じゃない。
他人の欲しいモノも基準じゃない。
価値観は本来、自分とモノとの直接対決だ。
覚悟を持って選択することだ。
そしてその責任を、引き受けることだ。
たとえ社会のルールが資本主義でも、
この人間の本質は変わらない。
相手の価値を認めること。
それは、自分の価値観をさらけ出すこと。
自分が何に価値を感じる人間であるかを表明すること。
自分の品格を表すこと。
自分の鏡。それはお金の、本来の姿だったかもしれない。
もういちどそうやって使うことは出来ないのだろうか?
たまに希ってみるのだけど、、