旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

コミュニケーションに”いつか”はあるか。

いつかこういう外見になったらあの人と話そうとか、
いつかこういう地位になったらあの人と話そうとか、
いつかこういう知識をつけたらあの人と話そうとか、


そういうものが私にはたまにあるのだけれど、いや、あったのだけれど、
でも、”いつか”を因数分解すると出てくるのは全部”今”。
今×今×今×今×・・・何乗かわかんないけど。いや、それは永遠に続くのかもしれないけれど。


でも、たとえば、英語を完璧に(ありえないけど例として)マスターしてペラペラ話してという「いつか」は、今、ここで、目の前の外国人と何としてでも意思を通わせたいと必死で辞書を引くその切実さにはかなわない気がした。


いざは今をおろそかにする。
これは、和泉元彌さん(昔は変なイメージなかったこの人)のお父さんが言ったことだったと思う。
そういえばこの言葉をテレビで聞いて、どうしても心に残って、
私は7年前、初めてウェブで日記をつけ始めた。


「今」は「いつか」の準備期間ではない。
今は今だけのために存在するし、いつかは結果でしかない。
「今」は「いつか」のために存在するのではない。
・・当たり前だけれど。



たとえばコミュニケーションにおいて、相手に見劣りすると自分が判断したものがあって、
それを隠すために今は「防御(クローズド)」の体制をとっておき、
自分が優位な属性を身につけてから「オープン」であることは可能だろうか?


たまにそういう戦略を取っているように見える人がいるけれど。



その場合その人にとって、クローズドである間の人間関係は
かりそめで、暫定で、踏み台になる。
今じゃないいつかのための、今。


でも、いつかは、今の積み重ね。今の累乗。
その今がいつでも暫定だった場合、いつかは何になる?いつかっていつになる?



今を掴むことは難しい。過去を悔やんだり、未来を憂うことよりずっと。
自分に留まることも難しい。自己欺瞞や、自己憐憫よりずっと。


「今」の本質は明日も会えるからと油断していると流れてしまうし、
今日が最後かもと身構えても逃げてしまう。
お父さんが、子供の運動会を「いつか」の為に一生懸命ビデオに撮りながら
二度とない「今」を全身全霊で味わうことを逃すように。
旅行の最後の日を、これが最後かというどんよりとした思いが頭から離れずに
無心に味わえない時のように。



たいていのことは、きちんと日々努力をし、備えている人が、
チャンスの前髪を掴む。それは知ってる。


その未来があるから、人は今を生きていける。


でも、未来があるせいで、人は今を生きていないとも言える。




むかし、小学生の頃、斜に構えていたことがあった。そいう子供だったことが。
でも途中でやめた。とても損だからだ。
いいものをいいと言う、楽しいことを楽しむ、すごい人にすごいと言う、かわいい人をかわいいと言う
そうしないことで、その場に入らないことで、膨大な機会損失が発生していることに気づいたから。
くだらない防御のせいで、自分の未来が縮小していってしまうような気がしたから。



・・プライドを捨ててとか、自分の殻を破ってとか、そいういう単語とはちょっと違う気がするんだけれど、
ただ、その人が、誰かとのコミュニケーションを暫定だとか、取るに足らないとか思うことは、
その人の今自身が暫定であったり取るに足らないことになってしまうことと同義で、
それはその人の今が失われ続けているということで、
それはいつまでたっても「いつか」にはならないし、とてももったいない。
そういう風に思う。