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『ウェブ人間論』感想(1) 変化のわからない世代から。

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

やっと読んだ・・。


下手にまとめたりする人がいないので、お二方の違いが違いのまま出てて興味深かった。
梅田(id:umedamochio)さん*1もあとがきで

 しかしそれは、本書で取り上げたいろいろなテーマについて、「俺はこう思う」「私は……」と誰もが思わず語りたくなる土台としてのオープン性を、期せずしてもたらしたのではないかと思う。

と書かれているけど、そういう、他人を乗っからせたい気にさせる、そんな契機になるいい対談だなあと思った。


だから、たとえば書評ばっかりたくさん読んでまだ読んでない人いたら、
その暇に自分で読了したらいいよね、と思った。


ところで前作が「進化論」、今回が「人間論」と、
実際に学問として進化論や人間論を構築されてるような人にとっては
「えええそんな軽々と使うんだその言葉!?」みたいなところがあるんじゃないかと
勝手に危惧したりしてたんですが(杞憂)、梅田さんの

検索で空いていた

という説明を読んでああなるほどそういう発想でしたか!と目から鱗
まあ梅田さん以上にウェブについて語れる人ってよく知らないし、
逆に言えばみんながこういうことに取り立てて違和感を持たないほど
ウェブは歴史が浅く、過渡期で、リアルタイムな変化なんだなウェブ。ふむ。


さて、無名の個人ブログが中庸論や一般論書いてもしょうがないので
あまり引用もせず、ごくごく個人的な、偏った感想を残しておこうと思う。



自分の属性は、本書で梅田さん曰くの”ゴールデンエイジ”の最後、77年生まれ。
インターネット元年が95年だそうで、その次の年に大学に入学したけど、
確かに文理問わず情報処理が必修だったし、全員にメールアカウントが振られ、
メーリングリストICQ(懐)、PHSやケータイが連絡手段だった。
入学当初はまだiモード前で、DDIポケットPメールとか使ってた。


あの頃は不景気で、就職氷河期で、教養なんてのんきなこと言ってる余裕もなくて、
「手に職を」「実学を」という強迫観念がみんなにのしかかってた。
文系の友達も、唯一門戸が開いていた「未経験者無問題」のSE職にたくさん就職していった。



私にとってバブル崩壊後の不景気とIT革命が重なっていたのって、
すごい印象的だ。
つまりは”技術を!!”と日本中が言っていた。
文化が何?教養が何?歴史が何?それがお金になるの?それで就職できるの?
それに答えられる大人はいなかった。そういう時代だった。
そこに、大人たちには理解できない新しい技術”IT”が登場した。
コドモ達が簡単に会社を作っていく。教養も人徳も後回しにして。
そこに何の対立的価値観も提示できず、その無邪気さを否定できない上の世代。


でも、それが唯一の救いだった。
平野さんはそんな中、大学在学中に芥川賞を受賞し、その後も活躍されている、
いわば”文系の勝ち組”だ(そう言われるのは不快だろうけど、、)。
そして梅田さんは、

実は僕の父は作家で原稿だけで生計を立てていましたが、それって絶対に苦しくて嫌だ、と僕は子供心に確信していました。僕自身、ものを書いて生きていきたいということがある時期から頭のなかにはあったけれども、それで生計を立てる生き方は絶対に嫌だと思って、他に職業を持つことを意識的に考えて今日に至っています。やっぱり表現で飯が食えるというのは、ある限定的な社会条件の下でしかできないと思うのです。(p115)

いう有言実行のリアリスト。
二人とも高学歴、ただの勉強バカじゃなくてきちんと現実を生きていく頭のいい人たち。


そんな二人に分かってもらえるのかわからないけれど、
就職口なんて選んでる場合じゃなかったあのころ、
私達にとって、ウェブだけが生き残る手段だった。
(ウェブなしの就活なんてありえないって言われ始めたのあの頃だし。)
ウェブだけが、上の世代に対して私達が持ってるアドバンテージだった。
そこに人格の半分を置くのは、リアルだけにいたら食いつぶされる私達の、
危機管理とも言えた。


大学の友達が言ってた言葉を思い出す。
「情報にかかる経費は、最低1万円は確保しておかないとね・・」
その頃通信コストに1万かけるって、世間的にはすごい高かったんだけど(まだ携帯もネットも要らないという人がたくさんいた)、
それでもネット&携帯はそれくらいのコストをかけて繋いでおくべきだ、それが保険になる。
という考え。それが私の周りでは、普通だった。
梅田さんが言う、

ネットの魅力の感じ方って、リアルな空間での自分の恵まれ度に反比例すると思うんですよ。(p70)

に近いんだけど、
別にはけ口として使ってるわけじゃなくて、両方を使って生きていくのが普通というか。。


だから、同世代でもウェブなしで充足可能だった平野さん、
そしてウェブのない世代の人で黎明期をリアルに見つめてきた梅田さんのように
ウェブとリアルを客観的、相対的に見る視点があまりもてない。
たとえば、匿名か実名かという議論、本か媒体かという議論、教養か知識かという議論・・
お二人の意見の両方ともしっくりこなかった。
そこが面白いんだけれども。
もうすでに自分が半分リアルと半分ウェブで成り立っているので、
それを分けてもしょうがないというか。
人間とは、形而上か形而下か!?なんて議論しないよねぇ普通、みたいな・・。


・・ああそうか形而上なのか私にとってウェブって。
ほんとの形而上学ほど抽象的じゃないけど、現実(リアル)ほど具体的じゃない。
でも、リアルのような物理的拘束から逃れてどこまででも行ける。
それは、リアルという「ボディ」が動いていくための燃料を投入してくれる領域。
確実に自分の一部で、他人には奪われ得ないもの。
それは匿名でも実名でも変わらない。
自分が自分であることが、自分で確認できさえすれば。
極端な話、相手は実在してもしなくてもいい。
ある日相手をしていたウェブ上の人格が過去の履歴ごとざっくりいなくなっても
ちょっとぼけっとして、ああたまにはそういうことあるよねと思って終わる。



あれ。本文に触れてないじゃん。いかんいかん。



印象的だったのは、というか装置として面白かったのは、
やっぱり二人の立ち位置のねじれ方。
世代的には”ゴールデンジェネレーション”なのにウェブの有用性や匿名性、オープンでフラットなあり方の中に人間の実在がきちんと保たれるのか(方法として)懐疑的な平野さん、
世代的にはおじさん(すみません)なのにあるものはしょうがないんだから怖がらないでがんがん使っていこうよ、アイデンティティなんて大丈夫だよ!と力強い梅田さん。


特に平野さんは、自分が今まで気にもしていなかったような危惧をたくさん持っていて、
へぇぇと思った。
それに対する梅田さんの返答も、私の印象の同じ世代の人たちよりは全然タフな考えでこっちは
えぇぇと思った。



うーん、細かいことは次回書くことにしよう。そうしよう。
・・自分のためだけに。

*1:と書いて誰のことか自明じゃない人もたくさんいるんだよなあそういえば、、と思ってリンク