All or Everything
二律背反、二項対立、表裏、陰陽、なんでもいいけれど、
こういった「物事を2つに分ける」概念は、お互いがお互いに存在を依存していて、
どちらか一つで単独に存在することはありえない。
というか、こういう2つのものは、
たとえば人間について考えたときには、
”人には表裏があって・・”とか、
”死ぬべきか、生きるべきか”というように、
ある一つのもの、もしくは目的のために
引き合いに出されている存在であるので
いつもそれは本題ではなく、本質でもない。
表は裏に支えられて表となり、裏は表の存在を担保として裏となる。
生は”死んでいない状態”として私たちに認識され、死は”生の終焉”として存在する。
そしてそれらは人間にまつわる属性を表すことはあっても、
人間自体は表さない。
単に理解を助けるために無数に考案される、分かりやすい分類の一つに過ぎない。
正負も幸不幸も勝ち負けも、
社会に同じ量があったり、一人の人間の人生に同じ分量だけ訪れたり
するような気がするかもしれないけれど、
世の中はそんなに単純じゃない。
負け続けることも可能だし、勝ち続けることも可能だ。
幸福でありつづけることも可能だし、不幸であり続けることも可能だと思う。
何かを得れば何かを失わないといけないわけじゃない。
あの人が幸福だから、私が不幸なわけじゃない。
今はダメだけど、いつかまともになるわけなじゃい。
今はこんなに幸せだけど、いつか不幸が訪れるわけじゃない。
はっきりいって関係ない。
その人の脳内が勝手に2択にしてるだけで。
赤の反対が青の人もいるし、黒の人もいれば、白の人もいる。緑の人もいるだろう。
それはその人のもつ思考、嗜好、志向・・ベクトルによって選ばれる。
どれを選んでも自由だ。
ベクトルに沿って、私たちはいつも勝手に2択をでっちあげて、
そして選んで生きている。
選択肢自体はどっちでもいいことが多い。
ただ、重要なのはその選択肢が用意された目的、ベクトルの方だ。
ベクトルがあっていればどちらを選んでもきれいに循環していくし、
ゆがんでいれば、どちらにせよ、いつか行き詰る。
私には、世の中なんて見えない。
いつだって、ケースバイケースで、バランスで、タイミングで、直観だ。
最初から2択を迫る人や物事があれば、逃げていいと思っている。
それは私の志向ではない。
問いを用意するのは、私だ。自分自身の責任でやることだ。
他人の問いは思考実験としては楽しいけれど、
本来の自分とは関係がない。
・・えっと、
とりあえず、マスコミや政府の人をバカにした2択提示に
簡単に乗せられないように来年はがんばりたいです。
といいたかった。おかしいな。まあいいや。
今年一年ありがとうございました。来年もごきげんに!