旧 はてブついでに覚書。

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お金を払って手に入れるものの割合について。

きのうの続き。


結局、金を介さないと手に入れられないものの割合が、
どれくらいかってことなんだよなあ、と思う。


ホリエモンみたく、金さえあれば何でも買える、というのもそうかもしれないけど、
そのうち、たとえば4割くらいは、別に金でなくても手に入ったりとかすると思うんだよね。
愛、とかじゃなくてもね(笑)。
作ればいいじゃんとか、もらえばいいじゃん、ってもの。


んーと、たとえば。
ゆりかごから墓場までの私達の人生、ざっくりタームで区切ると、
下記のような感じになると思うんだけど(年齢はモデルケース)。


被育児(0歳〜6歳)→被教育(7歳〜15歳)→学習or就労(16歳〜60歳+α)→悠々自適or被介護(60歳+α〜)


で、この中で”被”が付いているものは、基本的に他人に何かしてもらわないといけない部分(高校や大学もそうなんだけど、一応、義務教育じゃないし)。


育児と教育と介護、これ、フルタイムで残業もしまくって、っていう働き方をしている人間には無理なもの3つね。


私達はそれをどうやって解決しているかといえば、お金で解決してる。
夫婦どちらかがそれに携わる場合はもう一方がその分稼ぐ。
またはそういった人や施設にお金を払って代わりにやってもらう。
自分達が”それ”に関われない時間、
子供には保育園や幼稚園、学校や部活や塾に出来るだけいてもらったり、家庭教師に看てもらったり。
介護が必要な老人には、病院や施設やデイセンターに出来るだけいてもらったり、ヘルパーさんに看てもらったり。


働いてお金を稼ぐのに精一杯でそんなことしてる場合じゃないから、
お金で他の人にやってもらう。


もちろん、教育とか、病気の治療とかは、専門知識のある人がやってくれないと困るからそこはお金を払ってやらないといけないところだけど、
そのほか、”世話”に当たる部分は、別にどうしても他人にやってもらわないといけないものでもない。
たとえば介護が必要なおじいちゃんがいたとして、


金を稼ぐ→ヘルパーを頼む→世話をしてもらう。


っていう段取りでもいいけど、別にお金の動きを抜かして、


自分で世話をする


でもいいわけだ。



ただ、そうやって自分で世話をしてしまうということは、
フルタイムの仕事をしている人の場合、
仕事を辞めるということを意味するので、
そうすると、お金を介さなければいけない、たとえば”治療”の部分が今度は
まかなえなくなってしまう。


少し、働き方に柔軟性が出てきたとはいえ、フルタイムとパートタイムじゃ収入に雲泥の差がある現在。
パートタイムの少ない収入で自分で世話をするくらいなら、
自分はフルタイムで働いてそのお金で誰か他の人に世話をお願いするほうが、
まだ余裕のある暮らしが出来る。


ほんとは子供の”世話”も老人の”世話”も、地域全体でやるのが一番いいと思う。みんなの経験や知恵を出し合って、みんなで支える。
身内の一人二人じゃなくてね。
家族や親戚内だけでやるより、価値観に偏りがなくていいと思うんだよね。
だめかな。うざいかな。


みんな半日だけ働いてさ、あとは地域に帰れたらいいのにね。
子供あやしたり。地域のスポーツクラブでサッカー教えたり。勉強見てあげたり。お年寄りをお風呂に連れて行ったり。
みんなそれぞれ得意なことで貢献する。
ちょうど、もう半日の時給分で誰かに頼んでやっていてもらったことを、
自分達の手でやれるようになるよ。




Do it yourself で、お金を介さないで直接モノを手にしている人はたくさんいる。それは、世の中お金だろ、って人と同じくらいにはいると思う。


ちょっと昔の記事だけど。

倉田 例えばあぶく銭でも何でもいいから4000万円つくって、4000万円のマンションを買うのと、収入がゼロでも自分で家を建てて、同じものを建てたら、これって価値としては同じですよね。でも何となく4000万円をもらった方がリッチなような感じがするという。

 結局、お金が儲からなくたってそれ相応の、自分で作り出せば同等の生活ができる可能性があるんだけれど、そういうのってまったく無視されちゃっているじゃないですか。

http://business.nikkeibp.co.jp/free/x/20060328/20060328005469.shtml

こう言える人。


社会だってほんとは、Do it yourselves で結構やれたりする。
もちろん、育児も教育も介護もウザイ、俺は俺のために働くことと消費することだけをして生きて行きたいんだぁぁぁ、
とか思っている人はまあいると思うし、
逆に育児や教育や介護をビジネスにしてこそ面白いし経済が回るんじゃん!
って人もいると思うけど、
それと同じくらいに、時間さえあれば自分でそういうことやりたいよ、って人もいると思う。


人として、社会として。
どこまでを”自給自足”にするかの割合を
考えたい。


人は、自分達が稼ぐために、あの手この手で他人の新たな欲求を生み出させ、買わせ合ってる。
そうやって得たお金で、他のモノを買う。
モノがあふれ、情報があふれ、それを制御するものがあふれ、そして、私達はお互いの時間を消費し合ってる。


ほんとは、売らなくてもいいものは多いし、買わなくてもいいものも多い。


昨日夜思い立って温泉行って(田舎なので源泉かけ流しまで車で15分)、ああー極楽だと思ったんだけど、
私が金持ちになってしたいことって、どう考えてもいましてることと一緒なんだよね。
まあ、精神的な違いはちょっとあるかもだけど。


コピペのコピペのコピペするけど(この話バリエーションたくさんあるような)、
この辺、個人的には気をつけたいところ。

メキシコの田舎町。海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。


すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」
と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だと言った。


「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」


すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した人間として、
きみにアドバイスしよう。いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、
漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキソコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」


漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。 どうだい。すばらしいだろう」

お金持ちの不思議。:ひろゆき@オープンSNS


個人単位でこういう足るを知った抑制をしていくことも重要だけど、
社会が社会としてこうなるには、
社会みんなでえいっと方向転換、、というか価値観転換しなきゃ無理ね。
もちろん今だって、たくさんの人がボランティアやNPOで活動してくれてるわけだけど、まあたいていの人は、”本業を圧迫しない限りで”っていう制限の中で結構大変な思いしてやってるわけで。



でもさ、たとえば、web2.0な私達のアクティビティもさ、
単なる余暇やストレス発散の領域を超えて、
いかにお互いのためになるかっていうことをみんな
結構意識してるじゃない?
役立つ記事書いたりまとめたり、プログラム作ったりサーバー提供したり。


リアルで充足しない人がウェブをやる、って、id:umedamochioさんも分析してたけど、
現状は確かにそうかもしれない。
でもさ、そういう、サービスの物々交換がこれからも盛り上がっていくなら、
そのうち逆にならない?
つまり、ウェブで充足してる人は、リアルでお金を使わなくて大丈夫になる。


それがそのうちリアルに波及していってさ、
コミュニティが充足している人は、余計なもの(サービス含め)を買わない、
ってなるかもしれないよね。
なんかそうなりたいよ。


いつもにもまして書きながら考えてるんでまとまらないですが、、。
っていうかここまで読んでくれた人がいたらお疲れ様でしたすみませんなんですが、、。



親戚にもらった野菜のうまさを噛みしめながら、
繋がりに思いを馳せる連休深夜でございました。