旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

過去・今・未来の情報割合

最近同時代のものを見たり読んだりする割合が大きい。
雑誌、新聞、テレビ、そしてブログ。
本も、ビジネス・実用書や新書とか。
mixiとかのSNSや、あと最近はじめたTwitterで触れるいろんな人の”現在”。


もともと歴史が苦手なので、
(言い訳だけどさ、女脳ってあんまり歴史に向いてない気がするぞ)
歴史が必要のない、タイムスパンの短いものに
触れているのは楽だ。




ところで歴史というのは、そういった同時代の積み重ねから抽出された文脈のことだ。
私の「今」には、未来、いくつかの「歴史」という文脈が制定されるが、
私が毎日大量摂取している”同時代”のほとんどは、その過程で、捨象される。


文脈は、無数に制定可能だが、そんなには要らないだろう。
昔と違って、私たちは、リアルタイムで文脈を共有してしまっているからだ。
テレビで、新聞で、雑誌で、ブログで、私たちは、本流を知り、傍流を知り、その上で立ち位置を決める。
フラットな世界。
私たちはお互いに空気を読み合うことによって、いくつかに収束していく。
空気を読むという、現在であると同時にメタであろうとする行為。
現在を生きながら何を「歴史」にするかを決めているかのような、私たち。


さて、いくつかの「歴史」という文脈が制定された未来、
私が毎日血眼になって触れているもののほとんどは、思い出以外の価値を持たない。


それはそういうものであって、何も問題はないのだけれど、
逆に言うと、今すでに「古典」もしくは「歴史」としてまとめられているものの背後には、
膨大な(その当時の)現在があるということだ。
つまり、私が今触れている「現在」の何十分の一、何百分の一の”文字数”で、
同等の密度であるということである。


そして、歴史は繰り返している(らしい)。



今の高校生くらいを、可哀想だなと思うことがある。
携帯があるからだ。
モバゲーでも、メールでもいいけど、
あの年頃、友達や恋人の「今」が、
始終気になって気になって仕方ない年頃に、
それを可能にするツールを手にしていてしまうなんて。
過去を摂取したり、未来を創造したりする暇もないくらいに、
頭が現在で埋め尽くされている。


下手をするとそのまま、「今だけの知識で生きる」生活のまま、
何十年も生きてしまうかもしれない。
少し「今」を追うのをやめて、そこにある一冊の本を手に取ったら、
−それも、今の”空気”の中で出された本ではなくて、歴史という検閲をくぐり抜けた”真の本”を手に取ったら−
10倍の密度で情報が、示唆が得られたかもしれないのに。



と、他人事のように言ってみるけれど、
それはつまり、自分のことだ。


新しいものには価値がある。
ただし、その価値の期間は短い。


短い価値の物に囲まれて楽しい私。
消費した後に、何も残らない私。



毎日が新しくてわくわくするウェブ2.0
しかし私たちも、というか私は、そのまま年を取ったら、
・・・結構ダメダメでしょうね。


「古いもの」に接する量をもっと増やさないと
効率が悪くてしょうがないな、
と痛感するこのごろです。直そう。





ということで、



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(どっちだよ!)