自分の「極」に触れたい
・・・30になって、若干キャラが違ってきたような気がしますが、どうも今年はリアルではキレ芸のようです(笑)。
私すごい中庸とかバランスとかどっちもどっちとかって上手い子供だったんですよね昔から。
いろいろ調整事項があって(笑)。
あだ名がわりに「おい平和!」って呼ばれてたくらい。
で、いいかげん中庸に飽きたのではないかと思う。
というよりも、自分の「極」を確認せずして最初から中庸とか言っちゃ人間の経験としてアレでしょ、
という思いがあるのかもしれない。
何に怒って何に泣くのか。把握している部分もあるんだけど、よく分かっていない部分も多い。
ちょっと他でポストしたメモ。
- 何か個別の事象について話してるときに、「何でもそうだよ」「全てに意味はないよ」等、1、2、と来て途中すっ飛ばしてすぐ10、みたいな受け答えする人がいる。というかうちの父。会話として無意味である。癖なのだろうか。
- 「そんなことは当たり前なのであって、その全て無意味のなかで敢えて貴方がどれを選ぶかという話をしておるのだが」とその都度返す。
- 全てに意味がないことと、私がその中の一つに意味を与えるかどうかは関係ない
- 偏らない、中庸、一般化、相対化etc. の概念はベースとして感覚を持っていたとしても、ではその中でユニークな個として 実存を賭けてどの偏りを瞬間瞬間に選択するか、が個々人の人生の意味だろうに、自分の人生まで一般化してどうする