「普通」の代償
普通に美味しい
などの表現が最上級、とはいかないまでも相当な賛辞を表すようになってわりと経った。
私も使う。
「普通に」つまり、
あなたもそう思うであろうとある程度確信できる程度には美味しいと私は思った、
という、自分の主観に世間の価値判断(と本人が感じているレベル)を取り入れた視点だ。
世間一般的に言ってこれは「おいしい」と判断されうるものでしたよ、あそこの店は
というより短く言えてよい。便利です。
まあ、かくも「普通」はレベルが高い。
だって、ざっと眺めて”美味しくない”って言っている人がいない店でしょ、「普通に美味しい」店って。
欠点がないんですよね。最低限。もちろん飛び抜けて美味しいわけでもないけれども!
平均点は当然クリアっていうね。
似てるようで全く関係ない話ですが、
最近我々世代やもっと若い人達が、「普通」の就職や、「普通」の結婚ができないことについて嘆かれている。
これはもちろん普通のハードルが高いからである。
親世代と暮らしていて勉強になるのは、本当に彼らの時代は、みんなで共通した「普通」のイメージを持っていたということだ。
みんな働き者で、世話好きで、一生懸命で、いい人。
普通に進学するために、苦手な科目も頑張ったね、スポーツも集団行動もこなしたね、青春時代を潰して勉強したね。大学に受かったね。
普通に就職するために、世間において有用である技術を身につけるために大学生活頑張ったね、より良く使われる為に資格も手にしたね、就職出来たね。
普通に結婚するために、恋愛も頑張ったし、お見合いも結構こなしたね。親戚に顔向けできる相手を選べたね。結婚できたね。
普通に子供をもつために、欲情する相手ではないけど、致したね。片方は仕事を辞めて、産んだね。ラッキーなことに五体満足だったね。一姫二太郎作ったね。
普通に生活するために、片方はプライベートもなく身を粉にして働いたね。もう片方は家事と育児と介護を全部やったね。
「普通」をコンプするコースは、だいたいそんな感じみたい。
まったくもって素晴らしいと思うんだけれど、
すごい、プライベートな時間潰してるなー、と正直思う。
「普通」、もしくは「人並み」。
手に入れたものには、ショバ代も、メンテ時間もかかる。そして、そこから派生するしがらみも(人付き合いって一番時間食うよね)。
自分が大好きだからではなく、自分が心底やりたかったからでもなく、ただ「普通」とされているから手に入れたそれらに、膨大な「自分」が侵食されていく。
そんなイメージ。
普通、それは多分、
高度経済成長期に、被雇用者として社会の肥やしとなるための人達に提示されたモデルなのだろうと思う。
つまり我々のほとんど。
しかし今は、未来が見えない今は、
世間の要求する「普通」にどこまで自分を明け渡すことができるのか。
そもそも世間は要求しているのか?上の世代が単に内面化した価値観を下に押し付けているだけではなくて?
彼らが我慢して「普通」に捧げてきた時間を、同じように要求しているだけではなくて?
そうまでして「普通」を獲得した見返りは、我々にはあるのか?
もちろん、「普通」であることのメリットも多い。
マジョリティーは選択肢が一番多いから。
保障も補償も保証も保険もあるね。
ただ、「普通」を手に入れたら、「普通」に自分は喰われていく。
それだけは確か。
そのバランス。どこまで自分にとって魅力的なのか?「普通」は。
このあたりが最近自問すること。
まあ結婚や子供は損得で考えるものじゃないよ(不謹慎だよ)!!
と言われてしまえばそれまでだけどねー。
いいじゃない考えたって。
先日ネットで見かけて、まあそんなもんだろうなとは思ったんだけど、
まあ例えばこの後悔が、「普通」の、代償。
であるとしたら、どう生きる?
どれくらい「普通」に、譲歩できる?
まあ、そうまでして惜しむほどの「自分」なり「自己」なり「人生」なりが無いかな、
と思うのもまた事実。早く肥やしになれよ私、みたいなね。