旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

「好き」の劣等生

子供のころからやる気であるとか、精神力であるとか、エネルギーとかと無縁で
思い出すとあだ名が「平和」あげく「省エネ」だったことすらある私ですが、
ついにここ数年ですかね、起きると全てがリセットされていて、シャワー浴びながら
「自分はなんで生きてるんだっけ?」と問いかけるところから一日が始まるようになりました。


別に鬱ではなくてですね(極端に盛り上がらない代わりに盛り下がりもしない情緒の幅よ)、
寝てたら幸せだったのに私なんでいま起きてるんだっけ?みたいな。
まあシャワーを浴び終わると解決してるんですけどね。
答えを思い出したとかじゃなく、シャワーで体温が上がって身体が起動するので、起動するまえに感じていた「なんで」とか忘れる。


で、毎朝自分に問いかけるのもどうなのとやっと最近、違う人種だと思っていたエネルギーのある人たち、を観察するに、
やっと気付いたんですが世の中、自分が好きなことをやっている人だけがエネルギーがあるのね。
ああー。ですよねーーーーー。と膝を打った。


子供とかでたまにいるじゃないですか、この服絶対着ない、とか、今日はこっちがいい!!とか、
すごく幼いのにもう自分の好き嫌いがすごくはっきりしてる子。
自分が初めて目にしたときは何かの洗脳かと呆然としたのですが違うのね、気質として備わっているのねあれ。
好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。


呆然としたということは、自分はその対岸にいるような子供でした。
服も自転車もみんなお下がり、でも何の疑問も希望もなかった。
特別好きなものも嫌いなものもなかったなあ。選択をしようとしたことがなかった。


食べ物の好き嫌いとか、何々君が好きとか、どのバンドが好き、とかの好きはもちろん私にもありますよ。
そうじゃなくて自分に関わる好き嫌い。こだわり?
自分がそれを選んで気分がいいか、悪いかを敏感に察知する能力。
ないなー自分の中でそんなもの微塵も育ってないなー、と思った。


おしゃれでも何でもいいんですが、あれは「選ぶ」ことの繰り返しなのね。
本当に些細なことから、自分にとって何が心地いいのかを「選ぶ」
その積み重ねであったり、その重なりであったりが「好き」。


私にはそういう蓄積がない。
だいたいなんでもよかったから。
だいたい、極端に「ないわー」ってもの以外は同じに見えてたから。
ゆえに本当の「好き」もないんだなと。


あ、自分の好き嫌いを把握することとそれを表に表すことは別ですよもちろん。
把握したからっていつでもそれを優先しようとしたらただのだだっ子だけど、
それを優先できなくても把握だけはしている状態というのがあると思う。
私は、「この場で自分の好きを優先出来なくても把握だけはしている」という状態もなかった。
優先出来ない場合は最初から選んですらいないことが多い。どうせ優先できないなら気にしない(省エネ)。



とまあ、その辺にこのエネルギーのなさの原因があるんじゃないかと思って、
じゃあもっと自分の「好き」に耳を傾けましょう、という実験を始めました。
が、難しい。
というのもなんせ今まで大抵のものを「どうでもいい」か「気にしない」で過ごしてきてしまったので、容易にセンサーが働かない。
あと、たとえば2歳から既に明確な好き嫌いがあった人と比べて、30年以上分の「好き」の蓄積差があるわけです。
その人達は、蓄積があるから結構抽象的なこともすぐ選べるんですよ。その事前まで選んであるから。
でもそういう蓄積がゼロの私は、何十手も前の、もうすごくプリミティブなところから自分に問いかけないといけない。
どっちが好きなの?って。
「いやあ……どっちでも……あ、いけない!!!こ、こっ……ち?(夫に俺に聞くなという目で見られながら)」
のような辛い感じに。


でもまあぎこちないながら、面白いです。選ぶって面白いことだったんですね。
一歩一歩、自分を獲得していく気になるね。
逆にいうと、選ばなかった方を自分では「ない」と棄てていくことなんだね。
好きというのは対象との相互作用なんですなあ。
完全な自己があってそれが物言わぬ対象を選びとるのではなくて、より自分が「見える」方の対象に自分が吸い寄せられていく。
自分の習慣から自分が見えてくるように、自分が好きだと選択したものから自分というものが現れ出てくるのでしょう。知らんけど。


あとね、選ぶということは、自分を尊重するということなのだね。
これもなかなか難しい。
どうせ自分が何着ても一緒なんじゃないかと、服を買いに行くたびにどんよりするのをやめて、
自分にはこれだ、と自分に対して選んであげることだからね。大変なことだ。


まだ実験は始まったばかりで、どうも考察まで辿り着くのに20年くらいかかりそうな気がするけれど、
もし20年後に私がすごくやる気になってたら、それなりに効果あったということで。
(誰にも求められていない)