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自己啓発書と蜘蛛の糸

自己啓発書というのは、私の世代だと、100社受けても採用されないのは自己責任と言われた就職氷河期の子達が
藁をも掴む思いで読み漁ったもの、というイメージだった(自分が悪いなら自分を変えなければいけないので)。
私も(単に趣味だったこともあり)色々読んだけれども、大体数人のアメリカ人が源流で後はバリエーションなので、一通り読むと落ち着く。
感想としては、それを他人への批判に使わないのであれば、大変に有用だと思った。
効率のいい思考方法というのはある。思想とは別に。無駄な怒りや落胆を持たないとかも含め。


で、もう若くもないのですっかりその辺のことは忘れて過ごしていたところ、
何年か前から「意識高い系(笑)」というネットスラングを目にするようになった。

「意識高い系」という病~ソーシャル時代にはびこるバカヤロー (ベスト新書)
数年前からネットスラングにもなった、この「意識高い系」という言葉は、セルフブランディング、人脈自慢、ソー活、自己啓発など、自分磨きに精を出し、やたらと前のめりに人生を送っている若者たちのことを指す。


だそうです。何となくは分かる。見てて痛々しい感じなのだろう。
自己啓発書にかぶれちゃった感じなのだろう。


彼らと同じ世代だったらそれなりのどん引きはしたと思うが、既に一回り離れちゃった自分としては、
そんなに笑えないことに気付く。
なんだろうね、その裏の必死さというか。それを支えている、自分には何もないという恐怖。


あとさ、意識高い系(笑)でも自己啓発(笑)でもいいんだけど、そうやってバカに出来るのは、
それらを必要としない環境に育つことが出来た人達なんだよな。


新卒の子達の年代までにね、彼らがしてきた「経験」というのは、ほぼ周りから与えられたものなのですよ。
いや、物心ついた後は本人のやる気だろ、と思われるかもしれないけど、やる気すら環境で作られる。
知らないものに対して、存在を教えられていないものに対して「やる気」なんて持ちようがないから。
生まれた地域、親戚の格、親の学歴や意識、通った学校etc.
そういった全てが、その子がどうやって世の中を見、どういう経験を主体的に選択していくかを作る。
(あと、親の愛という全ての基底なるものがあるけれどそれはちょっと別件)


極端な例だけれども、
東京の、マスからサブカルまで文化が容易に手に入る場所に育ちかつ親も社会的にそこそこの地位と向上心があり経験を増やすことを是とするような家庭と、
田舎の、テレビがメディアの主体で周りに向上心のある人間が存在しないコミュニティで育ち親も外の世界に興味が無く循環する時間をただ消費する家庭と、
どっちに生まれるかで子供の経験は全く違う。
情報の格差が必然的にあるので、前者は後者の存在を知っているけれど、後者は前者の存在を知らない(というか興味が無い)。


どっちがいい悪いというのではなく、お互いに親と同じ環境やコミュニティで生きていく分には親からの価値観や諸々を受け継げばいいだけなので何の問題もないのだけれど、
問題は、後者の環境に生まれた子が何かのタイミングで「外部」を知ってしまった場合。
無視して自分のコミュニティに帰れる子はいいが、そうじゃない場合。


自分には「何かが圧倒的に足りなかったのだ」ということに気付く。
(気付くというよりは、違う文化に軸足を移したことで、その文化から見た「不足」がその人の意識の中に生み出される)


そうすると焦る。何かしないとと。
自分がいままで居た場所の、周りの環境からは全く情報は得られない。
むしろ向上心を削ぐようなコミュニティや人しかいない。伝手なんて当然あるわけもない。
自分で自分を「救い出す」しかない。


で、助けてくれるのは何かといったら、万人に容易に手に入り、分かり易い言葉で説かれた自己啓発書だったりするんだよな。
(他にも謎宗教とかマルチの勧誘とか色々あるんだけれども、それらに幸いにして引っかからなかった場合)


自己啓発書はさ、アメリカ人特有の明るさというか、生まれた階層は関係ないよ、という励ましが根底にあるしね。
何もなくても、今から頑張れば何でもあった人と肩を並べられる気がするんだよ。


ちなみに、クラシックな宗教や思想や文学はそういう子を救ってはくれない。
それらが教えてくれることは自分の認知を変えることで足るを知ることであって、
自分の認知を変えずに足るを求める彼らにとって、それは負けなので。




まあ、意識高い系と揶揄される学生達がみんなそういう育ち方なわけじゃもちろんないだろうけど、
たとえばその子達が他の「意識低い」子達をバカにするのであれば、それは(過去の)自分への嫌悪の表れたったりするんじゃないかなあ。


まとまらんけど、そんなこんなで、自己啓発書の先に救いがあるわけじゃないけれど、一度はかぶれてみることを、私は否定出来ない。
とことんかぶれればいつか飽きるし、とことんかぶれる中で得るものも絶対あるだろうし。



それはきっと知識ではなく、自分がどういう人間なのか、ということに対しての理解じゃないかな。
全てを恵まれて育った人は向き合う機会を持たないであろう、それなりに貴重な何か。