旧 はてブついでに覚書。

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やる気のけんきう

よくも悪くも、私にはそんなにやる気(というものがあったとして)がない。
まず第一に、やる気がなくても生きていける時代と場所に生きているという幸運があるということ。
それと、やる気とは関係なしに、仕事とか家事とか、最低限やるくらいには脳が鬱ではないという幸運があるということ。


とはいえ世間のおれはやるぜ的な人を見るにつけ、
たまには鬱陶しいくらいにやる気があると生産性が高そうでうらやましいので、自分がやる気を出す方法について考えてみた。

いい循環のある環境に行く

人がやる気を出すのってこれが一番だよね。
周りの人がやる気があったり、オープンで人を励ます人ばっかりだったり、
ミッションがあって一致団結していたり。
それなりに人のモチベーションがマネジメントされている組織にいたりとか。
そういう意味では私はぜんぜんモチベーションを損なわれる場所にいないし、
ネットでやる気にあふれる人たちと接点を持つことも出来るので、今の場所はまったく悪くない。
しかし私が出したいのは鬱陶しいまでのやる気である。
私の環境は鬱陶しくない。あと鬱陶しいといやだ。
目標としては、鬱陶しくない環境のなかで一人、秘めた鬱陶しいやる気を持っていたい。

まず体を動かす。

運動野が体を動かし、実際に筋肉が動くと、この刺激が脳に戻ってくる回路があって、線条体を含めたループが形成されている。このループが意欲とかやる気と大いに関わりがあるわけです。最近は「脳トレ」がブームのせいか、皆さん脳を他人事のように自分から切り離して見ている気がします。少しは、脳の立場になって考えてみてほしい。脳の立場なんて、妙に思われるでしょうが、想像してみてください。脳はひとりぼっちですよね? 固い頭蓋骨に覆われ、外の世界とつながっていないのだから。脳が環境のことを知る唯一の手掛かりは、体です。五官や手足の動きなど、体を通じてしか、今の状況を知る術がないのです。

ということを説明される先生もおられるということで、
それはさておいてもまあ、やってみたらやる気になった、ということは多い。
しかしそれは早起きとか掃除とか、割とスパンの短い作業においてのことで、
もう少し長くモチベーションを保つにはいろんなことをまずやってみなければならず、
それはそれで無駄が多くて疲れそう。

抑圧を感じる。

たとえば、成長する過程で親から(適度な)抑圧を受けている人で、それを跳ね返す形でやる気を持っている場合が多い。
いい感じに親が鬱陶しかったんだと思う。
親が一本筋の通った融通の利かなさを持っていたり、人間的に大人になって許せる範囲でダメ人間だったり、
とにかく早く自立してやるとか、自分の意思で生きてやるとか、自分で稼いでやるとか、
結果的に強く思うようになった人は自立が早いし、
その後のモチベーションにもそんなに苦労していないように思う。
逆に、「親の」聞き分けがよく、金銭的にも引け目を感じず、ほどほどに勉強して、ほどほどにやりたいこともやって、ほどほどにほしいものも手に入った人って、割とそのあともぼーっと消費してる。
いや、それでぜんぜんいいんだけど人生。
まったく抑圧ないと、跳ね返す力も生まれんわなあというかんじ。
私の場合は、小さい頃片親だった時期も長くそれなりにいろんな引け目も感じていたんだけれど、
それをばねにして世間を見返すほどのわだかまりなんぞ露ほどもない。。
あと、たとえば私は人生で正社員になったことないけど、それを社会に訴えてうんぬんって気もない。てかお金さえもらえれば立場とか何でもいいです。多いほうがいいけど。。

自己啓発的なあれ

知性のある動物である我々、体を動かすことによる刺激や他者からの抑圧もいいんだけど、そもそもそういったものを受けずとも脳内から自発的にやる気を発生させたいところ。
そこで、数多ある自己啓発書が役に立つ。
私はそういった類の本は大好きなのでわりと読んでいる。
もちろんどれも、実行すれば効果あるし、四の五の言わずに実行することでやる気のサイクルは生まれそう、というのはある。
しかし、そういった本の作者には共通点がある。
そういったことを本にしたりセミナーやったりするのが大好きなのだ。
そして、そういった活動が「彼らのやる気」の一部に貢献していることは間違いない。
彼らは儲かる、私はやる気になる。それはwin-winでまったく問題ないんだけど、
彼らが本に書いている「やる気」じゃなくて、彼らにそれを書かせている、彼ら自身の「やる気」に思いを馳せた時、
同じものを自分が持つことは出来ないなというふうにどうしても思ってしまって、興醒めしてしまう。。
彼らにうまく洗脳されることが出来れば、それこそが効率いいんだけどね。
しかし、何らかの野心的なものを潜在的に持っている人じゃないと乗りにくいんではないか、と思う。
野心っていう世代じゃ・・・ないしねぇ・・・・
あと仮にそれで「自己実現」した後は、その後のやる気はどうしたらいいの。

長い物語

自己啓発書の物語に乗れない場合、もう少し強固な物語がいるかなと思う。
人生全般をカバーするくらいの長さに耐え、
メタを探そうとする脳内のさらにメタを行くくらいの壮大さを持ち、
私が安心して、生涯をゆだねられる物語。
手っ取り早く信仰かなと思うんだけれども、それは別にやる気とは関係ない。
信仰を持って、「活動」する人も多くはいるけれども、
私の感覚だと信仰が本当に板ついている人って、人の勧誘(による自分の救済)や、他人や世の中を変えるためのアクションっていうよりは、
ただただその人のたたずまいに、意思に、振る舞いに、ひとつの筋が通っているだけの人だと思う。
信仰でやる気が出る場合もあるかもしれないけど、もう少し、精神のベーシックインカム的な、世界観の構築土台じゃないだろうか信仰は。
となるとほかのものなんだけど、思想か?
大好きな思想家はいるけれども、それはその人の世の中を把握する枠組みが好きなだけだなあ・・。


などと、いろいろピックアップしてみましたがまあ、
一応、長い物語路線だなあと思いつつも、そんなに組み立ってないこのごろ。
いいんです。そうやって、大きな物語を組み立てながら、
目の前の小さな物語を地道に成立させていくことが、人生の営みですね。
病や事件や、これから、自分が否応なく立ち向かわなければいけないものも出てくるでしょうし。
今、ほんのちょっとの凪、つかの間ののんびり。


なによりも、今こんなことしていられる時間を与えてくれている
全てに感謝しながら、少しでも人の役に立つような人間になりたいわなんて思った今。
というくらいのやる気を持つには至れるな、ブログを書くということは。
最近ブログの書き方忘れてましたが、やっぱ書こう。