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はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

決めない人たち(震災メモ)

最近、何も考えていない。
ここ2年くらい(実用書以外に)ほとんど本読んでないんですけど、
そうすると考える事もなくなるなあということがよくわかりました。
それでも生きていけるので悪くはないけどつまらないね。気をつけましょう。


考えることはないんだけどやることは多いのでそれなりに日々は過ぎていく。
震災について自分が何を考えて、、というか思っていたか、
10年後にブログ見ても何もわからないなあと思ってメモ(と偏ったクリップ)。
長いので読んでくれる人は斜め読みでお願いします。


3月11日の震災はさすがに私にも衝撃だった。
実は震災後1週間くらいは事態がよく分かってなくて、
日本社会の鬱陶しい習慣(定時出社フレックス退社とか)が
交通の麻痺でどんどん崩れていく様子にほっとしたり、
日本社会の思考停止の連鎖(上に相談しないと決断出来ないとか)で
仕事の、特に役所関係の人たちの判断の遅さに苛立ったりと、
非日常感に浮き足立っていた。


少し経って、現実に戻って一気に復興に注力するのかと思いきや
原発が爆発しておりそれどころではなく、
周辺住民の方には、被災者の救助が見捨てられて退避命令が出ていたり、
未曽有の大惨事とはこのことと思った。

妻と子供が行方不明の友人は津波の翌日、避難指示にもかかわらず、自宅に向かった。辺りはがれきの山。あちこちから「助けてー」という声が上がっていたが、一人ではどうすることもできず、そのまま帰るしかなかったという。
原発事故がなかったら、もっと早く捜索してくれていたら、たくさんの人が助かっていたはず。それだけが本当に悔しい」。由佳さんが、頑固だった父に似て口下手な和司さんの思いを代弁した。放射線被曝(ひばく)への恐怖や風評被害…。「本当に悲しいことばかり。宮城や岩手は復興に向かって動いているようにも見える。でも、福島はどう頑張ればいいのか」

こういうニュースが辛かった。
原発は(他の発電方法より)死人が少ない」という言い方をする人がいたけれど、
この避難命令によって救えなかった命は膨大だと思う。



私は帰宅難民になったり、家に物が散乱したくらいで被害がないので、
一番の被害といえば仕事関係で役所の人たちの判断しなさに振り回されたことだったんだけれど、
思えば、その経験がそれからの判断の基準になった。


「役所の人たちは、決められない」


ということだ。個人のせいではなくて、組織の体として。

西郷は、会計の世界で話題になっている「ルールベース」と「プリンシパルベース」を思い浮かべた。言うまでもなく、詳細に定められたルールに従ってさえいれば免責されるのが「ルールベース」だ。

 原則に照らし合わせてその是非を判断するのが「プリンシパルベース」だ。この報告は、まさしくルールベースだった。しかも、第三者の監査も行われていない。もし「プリンシパルベース」を貫いていたとしたら、「人命に関わるリスク」について、さまざまな可能性が議論され、報告されたはずだ。だが、その報告書には難解で無機質な数字と「基準以下」との結論が書かれているだけで、最悪の事態の可能性について何も書かれていない。

これはウェブサイト上の連載小説だけれど、ウェブ連載ならではというか、時事に沿いながら話が展開されている。
この西郷さんという人が、福島第1原子力発電所3号機の耐震安全性に関する報告書というのを読んでの感想。


ルールベースとプリンシパルベース、なるほどそうい言い方があるのかと思った。
要するに、規則に沿うのか原則に沿うのかということだ。
日本の役所の人たちは明らかに前者。
規則に沿って判断して人が死んでもそれは免責される。
しかし、規則や上司の許可なしに判断してもし事が起こったら(そして、たとえそれで人が救えた場合でも)糾弾される。
役所の人はいつも数人で会議にきて、ほとんどその場での決断をせずに帰る。個人で判断しないということが徹底されている。
規則を破ってでも人命に配慮することで彼らが得られるメリットはない。
自治体に頼むと都や県からの通達がないからという。
都や県に訴えると国からの指示がないからという。
徹底して、上からでないと全く動かない。
しかも、上からの指示がわりと、「各自治体で判断しろ、責任は取らない」って感じですごい。

通知によると、1キロ当たり10万ベクレル超の汚泥は、発生した都県内で放射線を遮蔽できる施設内に保管。10万ベクレル以下8000ベクレル超の場合、住宅地などから一定の距離を置いた「管理型処分場」に仮置きできるとした。最終的な処分方法は今後検討する。8000ベクレル以下については、管理型処分場への埋め立てを認めるが防水などの対策を求め、跡地を住宅地とすることは制限する。汚泥の再利用は、原子炉等規制法で定められたコンクリート用の基準「100ベクレル以下」であれば可能。一方、園芸用の土などへの再利用は自粛する。

これとか、数値の基準決めただけで、じゃあどこに置くのよとかその費用はとか全く言っておらず「よきにはからえ」スペックが高い。

けれども、日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。仮に自分の決断が誤ったものであったとしても、「あの時にはああせざるを得なかった」と言える「言い訳の種」が欲しい。「エビデンス(論拠)とエクスキュース(言い訳)」が整わなければ動かないというのが日本のエリートの本質性格である。良い悪いを言っているわけではなく、「エリートというのは、そういうものだ」と申し上げているのである。
 だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。だから、「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。

上は、内田樹先生のご意見。
結局、一番の上の人である「国」も、決められない人たちの集まりなのかも知れない。


まあとにかく、いい悪いというのではなく、役所とはそういう組織なので、
そこに無駄に憤ってもしょうがないなと思った。


もちろん民主主義の手法としてデモ等があるけれども、
先進国ではまっとうな民主的行為として認められているらしいデモ、
日本だとどうも引いてしまう。
全共闘の人たちのイメージがある気がする。
すでに私は知らない世代だけど。
その下にしらけ世代というのがあったと聞く。
その名残の雰囲気というか。
本当はここで引いたら市民として負けなんだろうけどね。
そんなことより議員さんそそのかしたほうが早いみたいな何か。


ということで、一市民に出来るのはできるだけの自己防衛と
直接の助け合いだなと思った。
助け合いは、日本赤十字社等への大きな募金は届くまでに大変時間がかかるので
こういうプロジェクトに送るとかとか⇒「ふんばろう東日本支援プロジェクト
※他にも、民間でソーシャルウェブネットワークの力を使って奮闘なさっている方々が沢山いる


自己防衛は、まず自分と家族の地震対策と、
あと今は、放射性物質内部被曝
内部被曝については、私はどうやら周りから見ると若干神経質らしいんだけれど、
まあ理由はいろいろある。


一つには、妊婦や幼児のお母さんの友達が多く、彼女とちびちゃんずの健康を願っていること。
一つには、これくらいなら大丈夫とか、これくらいならやばいとかいちいち判断するのがめんどくさいので、疑わしきものは食わずで行きたいこと。
癌にかかるリスクはよくタバコと比較されるけど、私はタバコは人生で一本も吸ったことがないのでそこで比較されてもよく分からない。
ジャンクフードは親世代の一生分は食べた気がするのでどのみち大した寿命ではないかもしれないけれど、
ジャンクフードと外食をこれからも心置きなく食べるために、
自炊には気を使いたいと思う。


そもそも低線量被曝にはデータがないそうなので、
我々が今後提出することになろうかとは思う。

学者が知っている知識のレベルを纏めると以下のようになります。
・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に悪影響を与えることを示す臨床データは存在しない。
・100 mSv を下回るような低線量体外被曝が健康に良い影響を与えることを示す臨床データであれば存在する
。・LNT 仮説はあくまでも仮説である。低線量体外被曝が健康に与える影響については、その影響が良いものか悪いものかですら、よく判っていない。

で、一応、国の暫定基準値が決まって、お達しが出てると。

食品の放射性物質の暫定基準値はどうやって決まったか - 勝川俊雄 公式サイト


とかを拝見するとほんとお疲れ様ですという感じなんだけど、
一応じゃあ、それに従って出荷制限がされるのねと思う。


で、疑問に思うことは、日本にそんなに測定器あったっけ?ということ。
放射性物質はいろいろなマップを見る限り福島から関東平野までは
確実にいろいろ飛んできているけれど、そこは測れないなあと。

「ほとんどの農作物が検査を受けずに市場に出ている。まるで“底の抜けたザル”です」

 原因は圧倒的な検査機器と専門スタッフの不足だ。

 厚労省が検査への使用を薦めている「ゲルマニウム半導体核種分析装置」は冷戦時代、核の脅威に備え、当時の科学技術庁が各都道府県に購入を指導したが、とても現在の需要に追いつく台数ではないという。

 1台約1500万円と高価にもかかわらず、震災後は平時の5倍以上の購入申し込みがあり、「納期まで少なくとも4カ月待ち」(販売代理店)という状況になっているのだ。

 魚介類の放射能検査の中心的存在である「水産総合研究センター」(横浜市)には、事故後、自治体や漁協から検査依頼が殺到している。

 担当者によれば、10キロ程度の魚(カツオなら3匹、イワシなら50〜100匹程度)の頭と内臓、骨を除去してミンチ状にし、筒状のタッパーにすき間なく詰めて、測定する。

(page: 2)

 同センターは分析装置を6台保有しており、約10人の専門スタッフがフル稼働で検査にあたっているが、前処理を含め、一つの検査に3〜4時間かかるため、1日に4検査が限度だという。しかも、

「魚は足が速いため、検査結果が出る前に、同じ場所でとれた魚は消費市場に流れている」(漁協関係者)

あー、大体こんなもんだろうなあと思う。
基準値があったところで、測ってないものをどうやって足し算すれば。


それでも、いろいろなところでできるだけ測ろうと努力してるんだろうなと思う。
思いたいんだけど、役所の人の事が思い浮かぶと、
彼ら、何が嫌いって、極端な人たちからの電話の嵐で仕事にならない状態が嫌い。

県経済産業部は「消費者への連絡など最低限のことはやっている。HPで出すとかえって不安を広げかねない」と説明している。

役所の人たちの「不安やパニックを与えかねない」というのは
不安を広げかねない=また電話が鳴りまくりかねない
ということなので、まあこれからもさっさと数値が発表されたりすることはないだろうなあという感じ。
(私も県庁に半年くらいいた事があるだけだけど、基本こんな感じじゃないだろうかどこも)


それどころか、測定を渋っていたりもする。

放射能を不安視する県内の生産農家などからは、4月上旬には検査を求める声が県に寄せられていた。にもかかわらず、県は「検査依頼は農協中央会を通じて一括して申請してほしい」との説明を繰り返した。


 同中央会の正式要請は5月2日。県が検査を依頼する農林水産省の外部機関は各都道府県ごとに検査実施日を決めており、直近で5月10日(前日の9日採取)に決まった。県は対応が後手に回ったことについて、「5月上旬に出荷される認識はなかった」などと説明している。


こういう姿勢はやっと正されたらしい。
荒茶検査 苦渋の方針転換 県が実施へ 風評被害を懸念 : 神奈川 : 地域 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
苦渋もなにも、なんで検査しない方針だったのか意味がわからないどまあいいや。


普通、測るのが間に合わない場合、
政府なら汚染の可能性がある地域の作物や魚を一律で出荷停止にし、
その分補償を即座に決めるべきだと思う。
だけどそれを生産者の人たちの自己責任にして、
かつ、測ってもいないものを食べないことを「風評被害」と名づけて
食べない消費者を牽制する。
私は、どうせ買うものを被災地域に近いものにすることでいいことした気分になるくらいなら、
それでも出荷制限になってしまった人たちを含め直接義援金を送ったほうがいいと思うけど、
もちろん買うことも自由だと思う。
なんかとにかく、政府が決めないせいで、
気にする派と気にしない派が無駄に争ったりしていてほんと無駄だなあと思う。
気にしない人は食べればいい。
気にすること自体で癌になる人だって世の中にはいるかもしれないんだから、
気にする人は気にする自由がある。


気にする人批判には、例え測ってなくても大した線量じゃないよ、というのはあると思う。
しかし、2ヶ月くらい経って「あの時たくさん飛んでましたー」とかいう発表がされる国なので、
あんまり安心して生きづらい。
あと、子供から一瞬たりとも目が離せない親御さんたちに
きちんといろんな一次文献あさって本当に危険かどうか考えてみましょう、
とかいう余裕はないと思う。
いいじゃん疑わしきは食わずで。

そんな婿の近況
ウチは規模が大きめなので、毎年、播種は4月5日、10日、15日と3回に分けてやっていたのですが、
今年は義母と議論して議論して議論して
作付を自粛することにしました。


理由は3つ


そもそもなぜ作付を議論する余地があるのかというと、4月23日、いわき北部は緊急時避難準備区域から外れ
30km圏内でも作付にGOサインがでました。


当時、作っても大丈夫なのか、土壌調査はしたのかと問い合わせた婿に対する農協や市のコメントは
「土壌調査はしてない(ウチの地域)けど大丈夫です。制限が解除されたので作ってください。」 でした。
(その時点で土壌調査されていたのは、あの広いいわき市でたった4か所)


作って、汚染されていたらどうなるのか、その買い取りに関しては責任を持ってくれるのかという問い合わせに対する返事は
「わかりません。あくまで自己責任で」 でした。
作らなかったら補償はどうなるか?と聞くと、対象になりませんという返事




要するに、
作んなかったら補償ナシな、だけど作っても俺たち知らねえから
でした。
どこの剛田さんとこの息子かと思いました。

買うのは自由、食べるのも自由です
買う人、食べる人には素直にありがとうございますです。心の底から。


しかしながら


福島の作物を買うのが支援で良いことで
それを否定する人は神経質で良くないこと


そんな風潮、こんな風潮を作りだそうとしている人達


心の底から反吐が出ます。

一番辛い思いをしているのはもちろん現場の人達だ。
自己負担で線量を測って自粛したりしている。


「決めない上の人達」


にみんな翻弄されている。
自分もだけれど、一個人として、一市民として、周りがどうするかじゃなくて、
自分としてどう判断するんだ、ということが今回一番問われたと思う。
我々の世代が言われつくされた「自己責任」とは若干違うニュアンスとして。



あとは、なんかあったっけ震災関連。
あ、原発の是非か。
放射線の被害についてもそうなんだけど、結構複雑な計算の連続だと思うんで、
何が是なのか私の情報量と頭では判断出来ない。


ただ一つ気になるのは、震災直後に(他の稼動している)原発を止めてという
訴えをしていたのは技術者(実際に作った人も含め)の人が多かった気がすること。
設計書があったとしても、細部は職人の腕次第で仕上げられていく建物だけれど、
「ちゃんと作ってないんだから」と訴えていた技術者の人もいた。


経済系の原発推進派の人たちに言わせると、反対を唱えるのは無職か主婦か老人が多いそうで、
経済に与える打撃について計算出来ない人は不安定な自然エネルギーをすぐ主張する
とのこと。
経済効率を維持するには原発がいるのかなあと思わないでもない。


しかし、推進派の人たちも、活断層の上にあったり、ちゃんと作ってなかったりする原発
嫌なんじゃないかなあ。何かあった時のコストが経済効率どころじゃないし。


まずは、一基一基、こんどこそ「想定外」のできるだけないように点検すること、
技術を見直し、シミュレーションし、リスクを計算すること。
そしてそれでも万が一のことが起きてしまったときの住民避難の段取りと補償の枠組みを
明文化して予算も見積もること、
んでそれを世界にも示すこと。


とかやった後じゃないと議論にならない気が。


いろいろ勉強していかないといけないすね。生きるには。
自分も多くの場面において「決めない人」だったなと反省している。

とある世代の家事事情

私たちの世代の結婚は、男女雇用機会均等的な理由のみならず単に不況によって
共働きが普通だけれども(職があれば)、
まあ、男女雇用機会均等法と一緒に男女家事機会均等法が施行されなかったせいで
こと家の事に関してはまことにボンクラリティの高い旦那さんというのが
わりといて、そういう旦那さんと結婚した奥さんたちの
愚痴というのを耳にする機会が増えた。
家の中のことくらい、自分と同じように気づいて、自分で動いてほしいのよね。
お互い働いてるんだし、どうせ旦那さんも仕事ならそれが出来てるんだろうし。


何かを、家または社会に教育されなかったコストは基本自分で払うしかないけど、
その必要性を本人が感じる機能すら装備されていない場合もあり、
そういう時は奥さんのコストになる。
このへんは別に新しい問題ではなく、
めんどくさくて結局奥さんが全部やってしまう場合が多かったのが昔だけど、
核家族極まる現代、そうは言っても一人ひとり仕事も家事も両方できないと
どちらかが長い間病気なり怪我なりしたとききつい。


少し前の終身雇用夫+専業主婦の人たちが私たちの世代に残した負債はわりと大きく、
一つ、子供(特に息子)を家のことはなにもしないお父さんと同じようなぼんくらに育てたこと、
二つ、そういうお父さんを残してお母さんが先に死ぬリスクがあることについて無頓着なこと(というか子供たちがそれをフォローするのが当然だと思っている)。


もちろん、この二つを全員が持っているわけでもなく、
まったく心配ない家庭もあれば、
この二つを両方貰ってしまった奥さんもいる。
遺産なんていらないからこの負債を解消して、と思ってる人も多いだろう。


家のことをなにもしないのは、男尊女卑とかじゃなくて、
単に、要請されたことがないので気づかないだけなのが多いのが、
我々の世代のそういう旦那さんの特徴。
何々の作業やって、と明示的に頼まれるとその作業パッケージについては一生懸命やる。いい子。
ただし、その都度言わないといけない。
洗濯物なり、片付けなり、ご飯の準備なり、頭の中で常に段取りが動いていて、
「気づいて」やるのが当然の人からみると
大変にまどろっこしくて歯がゆいのだけど、
気づかないものはしょうがない。
突然奥さんにキレられても、本人だって、言ってよ!とかなる。


このへんは根気よく二人で話し合ったりルール決めたりして
やっていかないとダメなんじゃないかなあ、なんて話するんだけど、
彼女たち、職もあり家事も出来、ひとりでも生きて行けるわけで、
そんな苦労して話しあったり伝わらないのを頑張って伝えなくちゃいけないなら
別に結婚してなくてもいいなあ。
と結構あっさり考えがちであり、おおーーい愛情はどこ行ったーー
と一生懸命止めてみたり、周囲も大変である。


しかも相談される私というのがまた、
うちは夫のほうが家事スペックが高く、私がぼんくらなので、
いやあ私に言われましてもすみません...みたいな...
あ、いや私なら旦那さん側の気持ちがわかると思って相談されるのか...そうか...


うーむ。


ところでニートといえば、仕事させろよというプレッシャーになるのが当然の
昨今ですが、
そういうプレッシャーをかける親御さんも炊事洗濯はしてあげてる、
みたいな場合もあり、
仕事はいいから家事できるようになればそれはそれで大変素敵なのに
そっちにはいかないのかなあ、などと。
どうせ職のない世の中、自給自足スペック上げるのはわるいことじゃない。


職は見つけなきゃないけど、家事は生きてる限り存在するし、尊い仕事です。
経済活動に関わって出てきたもの(=値札がついたもの)だけが価値じゃないってことは、
昔の人のほうがもしかしたら知ってたかも知れませんね。

年賀状クエスト2011

毎年末に段取りを忘れるのでメモ。

年賀状ソフトは便利

私は年賀状作成には年賀状ソフトを使用しています。
理由は年賀状作りに最適化されているから。
郵便番号入力しただけで一瞬で番地前までの住所が補完されるのは他の住所録ソフトでもやれるけど、
連名や旧姓などの細かいオプションに対応した年賀状レイアウト、
自分から見た宛先の名前の順番、年賀状や暑中見舞い、寒中見舞い、喪中欠礼葉書の
年度ごとの出受チェック、
など日本のめんどくさい風習に完全準拠してるのは、さすがに日本の年賀状ソフトでございます。
あ、もちろん表面も作成しやすい。どうせ私はデータ買って貼り付けるだけか外注するけど。。
とりあえず私が使ってるのは『筆まめ』。いつのバージョンだっけ。
筆まめVer.21 通常版 DVD-ROM
筆まめの萌えるところは、高速スキャナのScanSnapと連動して頂いた年賀状表面画像データを紐付けられるっていうところ。
心置きなくモノは処分できて素敵ですね。
と思ったら最新バージョンではその機能ないらしいぞ!えー。それのみが差別化のあれだったんじゃないの。えー。


住所録ソフトは別だったんだけど・・

住所録自体は、もともとは『Outlook』を使用していました。
Microsoft Office Outlook 2010 通常版 [パッケージ]
理由はいろんなデバイスと同期が取れるから(老舗なのでだいたいデバイス側が対応しているのだね)。
ガラケーの時はガラケーと同期してたし、今はiPhoneと同期してる。
iPhoneの連絡先データバックアップ先にも使っている。


年賀状ソフトは筆まめ、住所録はOutlook、これ、
Outlookから筆まめへのインポートは出来るのだけど(最近は逆もできます?よくわからず)、
まあ当然、彼らが瞬時に同期する気はさらさらない。
なので、誰かの住所変わると両方入力しなければいけない。
面倒になって、Outlookには住所入れなくなりました。どうせiPhoneからもメールか電話するだけだし。
ところでOutlookさんってクラウド方面にきちんと行かれるんでしょうか今後。


おつきあい帳へとグレードアップ

で、結婚したら、色々と家族としてお付き合いするということが増え、
しかし最近高性能の私の頭の中の消しゴムが半年もすればもらったこととか全部消去する為、
これはお付き合いを記録することが必要だ!ということになりました。冠婚葬祭あげたもらった、ね。
で、折よくDMが届いたもんだから、
筆まめおつきあい帳』というのを買いました。
筆まめおつきあい帳2
記念日やらお付き合い記録やらを記録できるのですよ。
これも外資の付き合いソフトじゃ知るかそんなことみたいな日本独自のどろっとした風習に対応している感じで。
あと、ついでに『筆まめ』の機能が統合されてるということで、
んじゃこれだけあればいいじゃん、ということで買いました。んでそれまでの筆まめデータインポートした。

筆まめのほうが便利なときがある

で、筆まめおつきあい帳、たしかにいいんですけど、筆まめの全機能を搭載してるわけじゃないのね。
住所録の中で今回の年賀状の宛名を印刷する人を過去の出受一覧を見ながらチェックしていく画面がなかったり(過去の出受一覧自体はある)、
印刷と同時に2011年年賀状の「出」にチェック入れるオプションがなかったり、
こちらではScanSnapとの連動機能がなかったり。
だめじゃん。


ということで、今年はまず『筆まめお付き合い帳』のほうで過去の出受け一覧等を見ながら
2011年の年賀状の「出」にチェック、
それからその住所録データをエクスポートして『筆まめ』にインポート、
そっちでその2011年の「出」のチェックを参考にしながら「印刷する」にチェック、
んでそのまま筆まめで印刷しました。なんだかなあ。


印刷で問題が!

あ、そうそう、印刷もめんどくさかったんだ。
今年、写真年賀状をネットで注文したんだけど、思ったより紙が厚く、
うちの前面給紙のプリンタ(つまりくるっと回ってまた前面に排紙されるタイプ)が
詰まっちゃって宛名印刷できない。
夫曰く宛名シールはださすぎて論外、ここで手書きしたらいろんな意味で負け、
困った時は金で解決、夜の9時にプリンタ買いに行きました。


そしたら最近の家庭用プリンタがごつくて驚いた。
何をそんなに盛り上がって印刷したいんだみんな。
そしてほとんど前面給紙!
電機屋の店員さんに聞いたら、今のプリンタはわりと厚紙対応してるけど、
ある一定以上はそうは言っても非推奨なので、背面給紙のほうが安全でしょうとのこと。
ですよねー。


最新機種を買ってもいいのだろうけれど今の家の安い複合機で何の問題もないので、
年賀状の宛名ごときで今のプリンタをお蔵入りにするのもなあと思っていたら、
よいのがありました、CanonのiP2700。その店では4,400円くらいだった。
Canon インクジェットプリンター PIXUS iP2700
インクが高いのこれ。CMYKとかごとのカートリッジじゃなくて、
「カラー」と「ブラック」しかない。あとヘッダ一体型なのかな。
そんなこんなでインク2種類買うとプリンタ本体より高い謎のプリンタ。
あ、もちろん最初はついてきますけれども。
まあ私はカラーなんぞどうでもいいのでこれにしました。
おうちに帰ってUSBで繋いで(家のもともとのほうは無線LAN)、
厚紙をものともせず快適に印刷できた。
もういいじゃん背面給紙でプリンタ。なんなんだ最近のあれは。


総括

今回わかったことは、
年賀状作成ソフトはスキャン派や住所録どこでも同期(含クラウド)マニアのことなど気にしていないし、
年賀状の外注を利用するのは宛名を手書きする層、ということでした。
私のターゲット外っぷりといったらない。
まあでも、好きなんだこういうの!事務職だからな!
2日くらい楽しめたのでよしとしよう。

自分探しと刺し違える

Twitterでリンクが流れてきて踏んで、ちょっと違和感持った。

なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。
理由は簡単である。
それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。
「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。
「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。

自分探ししてる人って、学ばないかねぇ?
積極的に知識を吸収し、体験を増やしていくもんだと思っていた。そうでもないか?


私は最近の、自分探しブームが一段落したのか大人になったのかわからないけど、
自分探しを否定してまず体験に身を投げよっていう感じの言説があんまり好きではない。
何事も中途半端だから良くないのであって、とことん探せば見つかると思う。現時点の想像力で思う形ではないと思うけれど。
とことん探すっていうのは、人は生きている限り自分の所業のフィードバックを受け続けていくわけだから、
それを分析して解釈して咀嚼して仮説を立てて実験してまた検証してを無限に繰り返すこと。
死ぬまで。
寝てようが働いてようが嫌な仕事で雇われていようが自己実現していようが病気しようが健康だろうが子育てしようが介護しようが
ずっとついてまわるでしょ自分探し。
しないのかなみんな。
思考停止して、なかった事にして、そんなもんだと思って過ごすのかな。


自分探しを哂うっていうと、
私の貧困な想像力だと、全共闘だなんだが終わったらサクっと就職していったらしい団塊の世代の人たちというイメージなんだけど、
まあ、バブルで、自分探しの必要なく、自己分析もエントリーシートも必要なく社会人デビューした人たちというイメージでもいいや、なんだけど
(すみませんその世代の方ただの偏見です)
そうやって自分探しに長い間蓋をして、そのまま死ねればいいけど、
表層を謳歌したまま60になって突然アイデンティティクライシスとか多分すごい辛いぞ。


確かに、止まってたら自分探しのしようがないので学ぶなり試すなりいろいろするしかないし、
止まってぐるぐるしてるだけの中途半端な自分探しは(これもある程度は必要だと私なんかは思ってしまうけど)時間の無駄だと思うので、
そういう意味で内田先生がおっしゃるならそれはそうかもしれない。


でも本気で探してたら人生のどの瞬間であろうが学びになるわけだし、
人はそうやって長い人生をかけて自分探しと刺し違えてるんだと思う。
明日その生が終わってしまうかもしれないけれど、それでも。


*1

*1:私を知りたいんじゃなくて世界を知りたい、という場合も、
だいたい「私」を通してしか世界を認識しようがないんだから、
絶対知(があるとして)に至るには自分が止揚され続けるしかない。
止揚される自分とその後の自分の自己同一性を必死で確認しながら観察し続けるしかない。
と20歳頃に『精神現象学』を読んで青臭く思ったことを思い出した。解釈があれだろうけれども。。また読まないとなあ。。

『新しい労働社会―雇用システムの再構築へ』を読んだ。

書評 新しい労働社会―雇用システムの再構築へ(濱口桂一郎)―極東ブログを読んで興味を持ったので読んでみた。

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)

新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)



生まれてから一度も正規社員であったことがないせいか、
日本において労働する上でどう立ち回ったらよいのか未だによくわかっていない私の社会人人生ですが、
その中でも2つ、とびきり意味のわからなかったことがあった。


ひとつ、昔、上司に昇給を打診したときに退けられつつ言われたこと。

chanmさん別に生活困ってないでしょ。


えっ


実家だし独身だし、ということだろうか。
しかし、仕事量や生産性とのみ相関を持つはずの給料ではないか。
その社員が生活に困っているかどうかが給料になんの関係があんの?
てかそういえば扶養手当って何だろう。意味がわからない。
子供ができたらその人仕事出来るようになるの。


と、はてなマークが大量に浮かんだ。



もうひとつ、新卒で入った大企業を定年まで勤めあげたある男性が、
定年後すぐ亡くなった同僚について語った内容。

ああいう生き方が幸せだよねって同期と話したよ。
子供も結婚したし、もういつ死んでもいいしね。


えっ


コロっと死ぬのがよいということだろうか。そりゃ確かに理想だが。
でもあの、あなたの人生、仕事しかしてないよまだ。学校行って会社行って、それだけだよ。
家や地域のことはほとんど奥さんに任せきりだったし。
これからゆっくり自分の趣味や奥さんとの旅行楽しむんじゃないの。そっちが人生なんじゃないの。
定年してさあこれから!って時に死ぬことのどこが幸せなの。奥さんどう思ってると思うの。
てか同期全員馬鹿なの?


と、はてなマーク・・というよりはどん引きした。



以上2点の意味不明が、本書の、しかも最初の方を読むだけで氷解した。
基本的なことを分かっていなかったらしい、私。

日本型雇用システムにおける雇用とは、職務ではなくてメンバーシップなのです。(強調:私)
日本型雇用システムの特徴とされる長期雇用制度、年功賃金制度および企業別組合は、すべてこの職務のない雇用契約という本質からそのコロラリー(論理的帰結)として導き出されます。


ああーー。
あああーーー。


そりゃ新卒(処女)かせいぜい20代しか採らないし、
学校で覚えたこと関係ないし、
会社の命令に従って職務はなんでもありだし、
能力に応じた給料じゃなくて職能給(年齢や勤続年数による給料だそうだ)や生活給(家族が生活できるような給料だそうだ)という基準だし、
その代わり滅私奉公&女性は結婚したら家庭に入って旦那を支えろだし、
会社に言われた転勤を断ったらクビだし、
クビになったからってその会社にのみ最適化された中高年が働ける場所はないし、
仕事できなくてもその組織に長くいれば給料多くもらえる権利あるし、
最終的には収支が合うから若いうちの薄給には我慢しろだし、



正社員(=メンバー)以外の生活なんて知ったこっちゃないわ。



大変に納得した。
ひとつ目の疑問の答えは、その会社が生活給という観点で個人の給料を設定していたということで(非正規の人も?)、
二つ目のほうの疑問の答えは、その男性の人生は「会社」に帰属していたということなのだ。社会ではなく(あとはロスタイム?)。


本書の目次はこちら(著者のサイト)。
冒頭の(私には)衝撃的な事実のほか、
月給制と時給制のへんなねじれ、女性社員の扱われ方がなぜ微妙なのか、非正規社員ワープアっぷりが昔はなぜ取り沙汰されていなかったのか、等、いろいろ私が謎だなあと思っていたことが、
制度の成り立ちを交え、私レベルにも大変分かりやすく、すっきりとした言葉で説明されていた。
引用したいところは数多くあるのだけど、時間が取れなさそうなので断念。ぜひ読んでー。


著者は、主にEUの事例を挙げ、賃金改革の方向性を示す。で、では誰がそれをやるのかというと、
最終的には政府からの押し付けではなく、組合側(正社員だけではない)から変革していくしかないとしている。
一人の生活を支えられない給料の非正規社員もどうにかしなきゃいけないからといって、
今はアレでも将来の昇給を生活設計に組み込んで会社にコミットしている正社員にとって、
突然、たとえば同一労働同一賃金というフラットが実現されて給料が下がっても困る。
両方に適応できるような公的なセイフティーネットを配備しつつ、メンバーシップ型からジョブ型へ
変革していくことが必要であろうとのこと(多分。また読んでみる。ざっと読んじゃったし。)


まあ、結局そういうのが実現されて割を食う「正社員」っていうのは
その年には結構な年齢になっているだろうわれわれの世代(第一次氷河期世代)でしょう。
さすが貧乏くじ世代。
マッチポンプともいう。
いいません。


てかその前に雇用なんですけどね。
雇用の前に景気なんですけどね。
景気良くなるといろいろ忘れちゃうんだなこれが。日本って。


あー頭よくなりたいわー

やる気のけんきう

よくも悪くも、私にはそんなにやる気(というものがあったとして)がない。
まず第一に、やる気がなくても生きていける時代と場所に生きているという幸運があるということ。
それと、やる気とは関係なしに、仕事とか家事とか、最低限やるくらいには脳が鬱ではないという幸運があるということ。


とはいえ世間のおれはやるぜ的な人を見るにつけ、
たまには鬱陶しいくらいにやる気があると生産性が高そうでうらやましいので、自分がやる気を出す方法について考えてみた。

いい循環のある環境に行く

人がやる気を出すのってこれが一番だよね。
周りの人がやる気があったり、オープンで人を励ます人ばっかりだったり、
ミッションがあって一致団結していたり。
それなりに人のモチベーションがマネジメントされている組織にいたりとか。
そういう意味では私はぜんぜんモチベーションを損なわれる場所にいないし、
ネットでやる気にあふれる人たちと接点を持つことも出来るので、今の場所はまったく悪くない。
しかし私が出したいのは鬱陶しいまでのやる気である。
私の環境は鬱陶しくない。あと鬱陶しいといやだ。
目標としては、鬱陶しくない環境のなかで一人、秘めた鬱陶しいやる気を持っていたい。

まず体を動かす。

運動野が体を動かし、実際に筋肉が動くと、この刺激が脳に戻ってくる回路があって、線条体を含めたループが形成されている。このループが意欲とかやる気と大いに関わりがあるわけです。最近は「脳トレ」がブームのせいか、皆さん脳を他人事のように自分から切り離して見ている気がします。少しは、脳の立場になって考えてみてほしい。脳の立場なんて、妙に思われるでしょうが、想像してみてください。脳はひとりぼっちですよね? 固い頭蓋骨に覆われ、外の世界とつながっていないのだから。脳が環境のことを知る唯一の手掛かりは、体です。五官や手足の動きなど、体を通じてしか、今の状況を知る術がないのです。

ということを説明される先生もおられるということで、
それはさておいてもまあ、やってみたらやる気になった、ということは多い。
しかしそれは早起きとか掃除とか、割とスパンの短い作業においてのことで、
もう少し長くモチベーションを保つにはいろんなことをまずやってみなければならず、
それはそれで無駄が多くて疲れそう。

抑圧を感じる。

たとえば、成長する過程で親から(適度な)抑圧を受けている人で、それを跳ね返す形でやる気を持っている場合が多い。
いい感じに親が鬱陶しかったんだと思う。
親が一本筋の通った融通の利かなさを持っていたり、人間的に大人になって許せる範囲でダメ人間だったり、
とにかく早く自立してやるとか、自分の意思で生きてやるとか、自分で稼いでやるとか、
結果的に強く思うようになった人は自立が早いし、
その後のモチベーションにもそんなに苦労していないように思う。
逆に、「親の」聞き分けがよく、金銭的にも引け目を感じず、ほどほどに勉強して、ほどほどにやりたいこともやって、ほどほどにほしいものも手に入った人って、割とそのあともぼーっと消費してる。
いや、それでぜんぜんいいんだけど人生。
まったく抑圧ないと、跳ね返す力も生まれんわなあというかんじ。
私の場合は、小さい頃片親だった時期も長くそれなりにいろんな引け目も感じていたんだけれど、
それをばねにして世間を見返すほどのわだかまりなんぞ露ほどもない。。
あと、たとえば私は人生で正社員になったことないけど、それを社会に訴えてうんぬんって気もない。てかお金さえもらえれば立場とか何でもいいです。多いほうがいいけど。。

自己啓発的なあれ

知性のある動物である我々、体を動かすことによる刺激や他者からの抑圧もいいんだけど、そもそもそういったものを受けずとも脳内から自発的にやる気を発生させたいところ。
そこで、数多ある自己啓発書が役に立つ。
私はそういった類の本は大好きなのでわりと読んでいる。
もちろんどれも、実行すれば効果あるし、四の五の言わずに実行することでやる気のサイクルは生まれそう、というのはある。
しかし、そういった本の作者には共通点がある。
そういったことを本にしたりセミナーやったりするのが大好きなのだ。
そして、そういった活動が「彼らのやる気」の一部に貢献していることは間違いない。
彼らは儲かる、私はやる気になる。それはwin-winでまったく問題ないんだけど、
彼らが本に書いている「やる気」じゃなくて、彼らにそれを書かせている、彼ら自身の「やる気」に思いを馳せた時、
同じものを自分が持つことは出来ないなというふうにどうしても思ってしまって、興醒めしてしまう。。
彼らにうまく洗脳されることが出来れば、それこそが効率いいんだけどね。
しかし、何らかの野心的なものを潜在的に持っている人じゃないと乗りにくいんではないか、と思う。
野心っていう世代じゃ・・・ないしねぇ・・・・
あと仮にそれで「自己実現」した後は、その後のやる気はどうしたらいいの。

長い物語

自己啓発書の物語に乗れない場合、もう少し強固な物語がいるかなと思う。
人生全般をカバーするくらいの長さに耐え、
メタを探そうとする脳内のさらにメタを行くくらいの壮大さを持ち、
私が安心して、生涯をゆだねられる物語。
手っ取り早く信仰かなと思うんだけれども、それは別にやる気とは関係ない。
信仰を持って、「活動」する人も多くはいるけれども、
私の感覚だと信仰が本当に板ついている人って、人の勧誘(による自分の救済)や、他人や世の中を変えるためのアクションっていうよりは、
ただただその人のたたずまいに、意思に、振る舞いに、ひとつの筋が通っているだけの人だと思う。
信仰でやる気が出る場合もあるかもしれないけど、もう少し、精神のベーシックインカム的な、世界観の構築土台じゃないだろうか信仰は。
となるとほかのものなんだけど、思想か?
大好きな思想家はいるけれども、それはその人の世の中を把握する枠組みが好きなだけだなあ・・。


などと、いろいろピックアップしてみましたがまあ、
一応、長い物語路線だなあと思いつつも、そんなに組み立ってないこのごろ。
いいんです。そうやって、大きな物語を組み立てながら、
目の前の小さな物語を地道に成立させていくことが、人生の営みですね。
病や事件や、これから、自分が否応なく立ち向かわなければいけないものも出てくるでしょうし。
今、ほんのちょっとの凪、つかの間ののんびり。


なによりも、今こんなことしていられる時間を与えてくれている
全てに感謝しながら、少しでも人の役に立つような人間になりたいわなんて思った今。
というくらいのやる気を持つには至れるな、ブログを書くということは。
最近ブログの書き方忘れてましたが、やっぱ書こう。

都会の時間・田舎の時間、男の時間・女の時間、そしてリアルの時間・ネットの時間

『時間についての十二章』という本で、著者の内山節さん(哲学者)が、
季節が巡り、同じ仕事が姿を少しずつ変えながら循環していく農村の時間と、
時計に管理され、直線的に進んでいく近代的な労働の時間を対比している。

時間についての十二章―哲学における時間の問題

時間についての十二章―哲学における時間の問題

(昔の自分のblogですが言い足りてない感じの内容紹介⇒時間についての十二章 | 本とか。物とか。


今より明日がよくて、過去より未来がきっと素晴らしくて、努力すれば実って、
そういう高度成長期的な熱狂から覚めて久しい私たち、
でも今は自己責任、自己成長、自己啓発
結局やってることは同じ、今に目をつぶって明日を夢見てる、
そんな私たちが本当に疎外されてるのは何か、そういうことを考えさせられる話。
都市や農村のいろいろな人の「仕事」観を通して、
その人が感じる充実や価値、そしてそれぞれの人の持つ寂しさが提示されている。


典型的な対比を、第二章「山里の時間」から引用。
時計に従い、過去から未来へと不可逆に進む「縦軸の時間」、
山里に暮らす人々はもう一つ、季節とともに循環し蓄積していく「横軸の時間」を持っている。
近代的な価値観の中で多くの若者は都市に出ていく。
でも少数、山里に留まる人がいる。

 それでも少数の青年たちは、いま村に帰ってきている。いまでは長男は家に残れと言う親もいないから、帰村したのは誰もが都市よりも村の暮らしのほうが好きな青年たちである。
  (中略)
 それでも村に帰った青年たちは、ときどき、取り残されたような淋しさを感じるときがあるという。伝統的な労働の系を受け入れるかぎり、彼は二十歳のときも、三十歳のときも、そして八十歳になっても、基本的には同じ仕事を繰り返しているのである。もちろんその間には、畑で栽培される作物の種類も変わるだろう、農作業の方法も変化し、農民としての腕も高まっていくだろう。しかし基本はあくまで、回帰してくる季節のなかで、その季節が求める仕事を繰り返していくところにあるのである。
  (中略)
 都市で就職した同窓生たちは毎年少しずつ縦軸をのぼっていくのに、自分は毎年同じ春を迎える。そのことが、山里の暮らしの好きな青年にさえ重圧を与えつづける。
 それは山村の過疎化を促進した重要な要素であった。縦軸の時間世界を中心にして社会が形成されている以上、円環の時間に身をおくことは停滞を意味するように感じられる。 

でもその淋しさや重圧が、ある時を境に逆転する。

 村の青年たちとそんな話をしていると、私は東北の農村で暮らしているある農民の話を思いだす。すでに六十歳をこえた彼は、長男として家を継いだ一昔前の専業の農民である。その彼も同窓会は憂鬱だったという。役職につく者がでてくる。その人たちが全体をリードするようになる。その頃の同窓会は、一年一年仕事量も「仕事の責任」も重くなっていく人々が勢いをもっていて、明日は今日以上の日が待っているというふうな雰囲気が支配していた。そして基本的に毎年同じ仕事をしている農民は、そんなふうに未来を語ることができずに、会話からも置き去りにされていた。
 「ところが」、とその農民は言った。「六十歳を過ぎたらコロッと雰囲気が変わったのは不思議だった。」縦軸の時間世界で働いていた人々が元気を失なってきて、農民はときに彼らから羨望の目でみられるようになってきた。客観的な縦軸の時間と関係を結んできた人々が、労働の世界のなかで、その関係を断ち切られはじめた。縦軸の時間世界がみせはじめたもろさ、時間が人間を使い捨てた。そのとき永遠に回帰する農民の時空のほうが、永遠性をみせていた。

だからといって最初から農村にいるほうが”勝ち組”、というわけでもない。

 村に帰ってきた青年たちは、縦軸の時間によって形成された人間の存在の脆さを感じとった人々である。だから彼らは、横軸の時間とともに展開する永遠の存在を選択した。だがそれは、この社会のつくりだした重圧を感じながらでもあった。


中途半端な田舎に育った私には、よくわかる対比。
そして女である私にもよくわかる対比。


今、六十代以上で、元気なのは女性だ。
高度経済成長期で、上と先だけを見て会社に奉公してきた男性、
プロジェクトXみたいな彼らの「自己実現」を尻目に、
家庭を支え、毎日同じ家事を繰り返し、子供の学校、地域の年中行事、そういった循環する時間の中で「社会」と切り離されて生きてきた昭和の女性。
そして会社の定年を迎え、肩書が外れ役目終了、有り余る時間、全くない社会との繋がりを前に何をしていいかわからない旦那さん、
子供が手を離れ、親と孫の世話にちょっと手がかかるものの、自分の人生、趣味に友達にと、循環する季節を目いっぱい楽しんでいる奥さん。


都市の時間と農村の時間の対比にそっくりだ。


どっちがいいとも悪いとも言えない。
前、六十五くらいの男性が、定年迎えた次の日に死にたいねなんて(家庭のことを全く顧みもしていないのか奥さんに嫌われでもしていて配慮しているのかわからないけど)言っていて大変に驚いたけれど、
仕事だけやって燃え尽きて終わっちゃえ、そいういう価値観もあるだろう。
世界中の人があこがれた美しい庭と生活を維持したターシャ・テューダーさんのように、移ろう季節をスローライフで楽しむのももちろん素敵だ。



私は最近もうひとつ、似たような時間の対比があると感じる。
リアルの時間と、ネットの時間だ。
リアルは基本、今しか捕まえられない。今はどんどん目の前から消え去り、新しい何かがやってくる。
私たちは常に今に対応せねばならず、記憶と、そして未来への想像の中で生きる。


ネットは記録の時間だ。データベース。ひたすらに蓄積される。
佐々木俊尚 さんが『電子書籍の衝撃』という本で、エピソードとともにコンテンツの無時間化を解説している。

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)

アンビエント」という言葉があります。「環境」とか「偏在」と訳されたりしますが、私たちを取り巻いて、あたり一面にただよっているような状態のことです。
 (中略)
ブライアン・イーノというイギリスのミュージシャンがいます。かつてロキシー・ミュージックという伝説的なグループに所属し、その後はデヴィッド・ボウイU2の音楽プロデューサーとしても名を馳せたり、多彩な活動を行っている記載ですが、彼が最近のインタビューで非常に面白いことを言っています。

「もはや音楽に歴史というものはないと思う。つまり、すべてが現在に属している。これはデジタル化がもたらした結果のひとつで、すべての人がすべてを所有できるようになった。」*1
 (中略)
 アンビエント化によって、音楽を聴くという私たちの体験はどう変わっていくのでしょうか。イーノは先ほどのインタビューでこんな話を紹介しています。
「私の娘たちはそれぞれ、5万枚のアルバムを持っている。ドゥーワップから始まったすべてのポップミュージック期のアルバムだ。それでも、彼女たちは何が現在のもので何が昔のものなのかよく知らないんだ。
 たとえば、数日前の夜、彼女たちがプログレッシブ・ロックかなにかを聴いていて、私が『おや、これが出たときは皆、すごくつまらないと言っていたことを思い出したよ』というと、彼女は『え?じゃあこれって古いの?』と言ったんだ(笑)。
 彼女やあの世代の多くの人にとっては、すべてが現在に属していて、”リバイバル”というのは同じ意味ではないんだ」
 (中略)
 1960年代の古いロックからゼロ年代の新しいポップミュージックまでが同じ地平線の上に見えていて、その並び順は、「自分が気持ちよいと感じるかどうか」「友人が『この曲凄いよ』と紹介してくれた」といった文脈の中に存在しています。
 そこには、「昔の音楽は昔の音楽として聴く」「新しい音楽だからとりあえず聴いておこう」といった従来の文脈は意味をなくしてしまっています。
 つまりここで起きているのは、新譜やミリオンセラー、ランキングを中心としたマスメディア的な音楽視聴スタイルは徐々に衰退し、「いつでも自分の好きな音楽を好きなように聴く」という方向へとアンビエント化が進んでいるということなのです。

デジタルだとコンテンツの場所に制限がないから、新しいものが出るために古いものの場所が削られるリアルと違い、過去と現在が同じ土俵に居られる。
コンテンツはどれも過去の模倣やリスペクトが入ってるから別に時系列で消費しても面白いと思うけど、
価値としては「新しい」「古い」というのはそう大きな変数ではなくなってきている。


リアルだけだった時、過去というのは歴史とか経過とか、「過去を重視する思想」を持たないと
あえて触れないものであったけれど、
ネット上で「コンテンツ」として扱えるものであればそれは、
時間にさらされて消えるものではなくなった。
Twitterやブログで私たちは「今」を蓄積しているけれど、
私にとっては遠い過去の投稿も、コンテンツとしてはトップページから同じクリック数だ。


どっちがいい悪いは、ここでもない。
ただ、どちらかの時間の中にいてキツくなった時、
今はオルタナティブがある。
ネットには今、多様な「今」が、可視化されている。
そしてそれが積み重なり、多層な「今」となる。
過去が、今のままで存在し、価値を失わない。
歴史は繰り返す。誰かの10年前の「今」が、今の私を助ける。


時間の感じ方というのは多分、自己の投影だから、人の数だけあるのかもしれない。
たとえば私は家事の中で、洗濯や掃除、食器の片付けは面倒くさくないというか、何も感じずにやるのだけれど、
料理をしている間だけは暇で暇でしょうがない。どんなに手が動いていても頭が暇。テレビやラジオでも付けておかないとやれない。本当は本でも読みながら料理をしたい。
仕事もできればラジオか音楽くらいは聴きながらやりたい。どんなに頭や手を動かして忙しくても、どこかで「暇」だと感じる自分が居る。


という話をしたらゲーム屋の夫が一言、「感情が動いてないからだよ」と言った。


なるほど感情が動いていると「充実」を感じるのかもしれない。
感情は好き嫌い以前の何か。正直なんだろうね。
直線の時間にいようが循環の時間にいようが、そこで感情が動いてなければ、
空虚なのはいっしょなのかもしれない。
客観的に見て成長しているとか儲かっているとか、
そういうもの以前の自分の心の運動。
それこそが私たちが捉える「時間」なのかもしれない。


インターネットの出現によって私は、少し時間の捉え方が変わった。
世界の広さを知り、人の多様さを知った。
自分の狭い知識の中の時間なんて、本当に切り取られた、不十分な何かだ。
一つしかないと信じていた「今」でさえ、なんと多くの表情を持つのか。
誰もが好きに時間を捉えてる。
そして捕らえられてる。
自分の時間は、つまり自分の感情は、単なるone of them だ。
取るに足らない、だからこそ自由で、かけがえのない。


混沌の時代ではあると思う。未来に希望とか、そういうことは思わない。
足元の循環する時間を、私の停滞する人生を感じながら、
それでも好きに感じていいんだなと、私の中で時間の感覚が楽しく暴れている。


あなたの感情は、あなたの時間は、今どんなふうに動いていますか。

*1:ブライアン・イーノ特別インタビュー』Time Out Tokyoよりと注記