温かい知、冷たい知
教養のある人はたぶん本をたくさん読んでるだろうけど、
読むというのはちゃんと読むということで、
ちゃんと読むということは深く理解するということで、
深く理解してることの一つはきっと、
社会や人間の驚くべき多様性だろうと思う。
そしてそういうことを上辺だけじゃなくて、深く、心から理解している人は、優しい。
教養のある人は好きだ。優しくて温かいから。
でもそんなにたくさんいない気がする。
上の世代に。
そういう、10年後、20年後、ああなっていたい!と
思える大人。
やっぱりバブルあたりで一度おかしくなった気がする。
んで、私達の世代も、このまま行くと結構痛い。
気がする。
突然だけど、昔倫理学を習ったときに思ったことは、
倫理は、何が正しいかを追求するのではなくむしろ真逆で、
自分や、自分達の社会がいかに独善的にならないで、
異なる価値観を受容しあって生きていけるかを模索する
泥臭い営みだということだ。
そういうのを人知れず、愚直に格闘しながら、大事にしながら、
そこに根を持って、知を育てている人が、やっぱりかっこいいなと感じる。私は。
神様が善悪を決めてくれる世界と違って、
倫理だと、人間の決め事だから、絶対的な善悪はないんだけれど、
だからこそ、その多様性の中で、自分の確固たる価値観を、自分の責任において、
迷いながら、信じながらを繰り返し、静かに育み続けている人。
その過程において、自分の価値観と同じくらいに、他人の価値観を受け入れられるようになる人。
って、尊敬する。
なのに最近はちょっと、教養が、ファッションぽいんだよな。
お手軽に着替えできるような。
今度はこれがいけてる、みたいな。
んで、私達もそういうものを求めてる。手っ取り早く。
でも本当はきっと、
価値観の根を持たない教養、人を寛容にさせない知識には、意味はないだろうと思う。
その人の心と離れた、冷たい知識は、そんなのは、
ぐぐるとたくさん出てくるから、要らない。
これで団塊の世代の人たちがみんな退職して時間できて、
ブログとか始めてくれたら、
私達が忘れているような、そいういう温かい知にたくさん、
その人たちが、出会わせてくれるのかな。
ちょっと楽しみ。
私個人は今はまだ、ずいぶんと冷たい知の中で生きているので、
(それ依然に”圧倒的に少ない”というのが問題なんだけどそれはさておき)
もう少し年を取ったころには、
もっと、血を通わせて、血行を良くして
温かい知になっているようになりたい。なあ。
・・ちょっとしかなくても。
ということで今年はとりあえず、小説読めない病を直したい。
実は1年に3冊くらいしか小説を読めない。
(実用書や思想書や新書系は読める。遅読だけど。あとは詩。白秋love。)
村上春樹ならと思って何冊か読んでみたけど
良さがまったくわからなかったという可哀想な頭を持っているので
年末にたくさん特集されていたいろんな人のお薦めを参考に、
がんばって心のひだを付けてみたいと思う・・・。